2011年12月27日

会計報告(常住より)


ジュサイはよろみ村の会計係をやっております。よろみ村では味噌づくりと餅つきを終えて、あとは大掃除を残すばかりとなり住人たちはもはや今年の終わりと来年のはじまりをただ迎えるばかりとなっております。
しかし、もう一つよろみ村の根幹にかかわる大仕事が残っております。それがよろみ村の会計記録係たるジュサイの肩にのしかかっておるのです。おおげさと言われても、たかだか年間予算200万円の組織の現金出納帳を足し算引き算するだけではないかと言われても、この記録を発表するものからすれば国家レベルの決算と全く変わらない重責を感じるのであります。
いかなる定義づけをも拒むという定義づけをされ続けるであろうこうした集団につきものなのはやはりお金の話なのであります。(それと異性問題でしょうか)確かに曹洞宗の寺がありますから仏教徒の集まりもしくは有名観光寺の門前町の物売りの店のごとき体裁からよろみ村を判断することも十分に可能なのであり、又無農薬のお米を栽培して売っているという事実がありますからそうした営利団体による決算報告という言い方も十分可能であります。
しかしジュサイが言いたかったのはそうした二次的な問題ではなく、よろみ村とはいったい何なのであるのかという、自らの出自を問うという重大な問題なのであります。そして各人が完全に平等ではありえないという事実が会計報告の決算表の数字によってあからさまになるのであります。みんな大人でありますから終末的な痴話げんかになることはまずありませんが、この決算表にたどりつくまでのジュサイの艱難辛苦を理解してくれる人が一切ないことにどんなに愕然としたことでありましょうか。問題はどんどん複雑になってゆきます。新しき村に暮す新しき人々というイメージを持たれる方もおられるようですが、どんなによろみ村を分析しても、定義づけしてもそれらの結論は必ずといっていいほどその人自身の想像力の賜物にすぎず、よろみ村の全体ではなく一部分を理解したに過ぎないものなのだと思います。なにより、ここで暮す一人一人がどんどんこうした問題を問えなくなってゆく。こうした問題がここに暮す一人一人の脳みそから生まれたのではなくて、こうした問題自身がこのように何を問うたらいいのかもわからなくなるひとりの人間を生み出したのでありますから。
しかしです。ここでお金というもののリアルさが光りはじめるのであります。こんなにリアルに平等に所持されている抽象ブツがありましょうか。いかなる問いも呑みこんで永遠に存在し続けるかのように今ここに現実として目の前にあるのです。数字の記録という純粋記号が!
そして又グルグルと思考はまわり続ける。私とは、あなたとは、一体何?私はあなたではないもので、それならあなたは私ではないものなのだという地獄から脱して新しいシステムは生まれ来るであろうか。お金は有り余っているのに、商品は有り余っているのに、それらが無いことによって自らを殺す人までいるという残酷さにいつまで耐えねばならないのだろうか。と思う。
それにしても、会計係だけが常住の仕事なのではないのだろうが、常に住んでいるという前提が無ければ、常にそこに有り続けるという決意なしに、たとえ金銭的な部面だけとはいえ、現実に人が住んでいる場所の意味を決定することが可能であるわけはないのだろうが、なぜ俺なんだという理由がどこを探しても見つからない。
というようなことをお金(通貨)はあからさまにしてくれます。問題があるということを表示してくれます。ややこしいのは私という意識そのものなのであって、お金(貨幣)にはいささかの複雑さもありえないように思われます。


2011年12月26日

餅つき大会2011

from A town


from near town


living hear yoromi


from W city


from A town


Zen master of ryushow temple


from T city



from nakanoto town


from W city


from yoromi old villege


iroiro




feed
waju murata→http://blog.goo.ne.jp/wajumurata/e/41e3f387bc253eabc01e354cc357e75ekeiko murata→http://yoromi.cocolog-nifty.com/blog/2011/12/post-4c52.html
miyatake→http://ameblo.jp/chillypapa/entry-11119226893.html

2011年12月20日

目に見えないこいつら(微生物、菌)がええ仕事をする

上から西川のダイコン、Kばあちゃんのダイコン(二年もの)庄原農協の広島菜

左からKばあちゃんのダイコン(二年もの)、庄原農協の広島菜、西川のダイコン

スイカを切るのがもったいなくて
すまんね、微生物などとおおざっぱにしか呼べなくて

2011年12月17日

さて、積雪は根雪となるか

太陽がさした


 当地の積雪は新潟や長野の人たちから見るとべちょっと湿っていてスキーしにくいらしい。上から目線の上越や信越のスキーヤーだが、北海道の連中からはわれわれと同じように上から目線をくらっている。シャーベット状態の北陸地方の積雪はドライバー泣かせでもあるのだ。北海道は以外に積雪が少なくて低温だからタイヤが雪道とくっつくらしいが、こちらは中途半端な低温だからだらしなく自動車がこしやけつを振ってしまう。
文具好き 特に帳面好き の中でも領収書好き
師走にて首はちゃんとまわっていますか?










2011年12月15日

しったくせぇ(少ししか知りもしないことを全部知っているように見せやがって)JUSAIが人に言われると最も傷つく輪島方言であります。

予想外の好天の中で、じいさんが土手の草刈をていねいにしている。あれって、自分の土地だからだけなのかと思う。能登以外の土地をあんまり見たことがないのだが、全国的にもかなりていねいに手入れ、目入れがされた土地柄なのではないだろうか。畦ぬりもまるで左官の手間賃仕事みたいにていねいだ。若いころはまわりに対する見栄だと思っていたのだが、それだけではない何かを最近感じる。世代が少し若返ってそうしたていねいな仕事ぶりが消えそうだから、なおさらそう思うのかもしれない。
白菜の結球が悪い。種の古いものを使ったからだろうと思ったが、知恵者に聞くと苗の定植の時期がちょっと遅かったのかもと言われた。予定をたててやるのだが、どんどん消えゆく古老たちは自分の時計というか予定表を体に刻んでおり、わざわざカレンダーと相談して種蒔きその他をやっていたのではないのではないかと思う。手編みのかごや、仕事や生活の道具類をおおむね自作でまかなってきた古老たちは生活者の部分と仕事の部分と余暇とがわれわれの世代のようにはっきりと区別されているのではなく、それらが渾然一体となった時間そのものを、己が身体とともに過ごしてきたのではないか。民俗学的調査すら不可能だった一つのフィールドが今消えようとしているのではないか。
ダライラマ14世が絶賛する古代と現代との見事な共存した姿が日本から消えようとしている。そして民俗学的博物館のような復元都市が各所にできることだろう。そこで人はむずかしい配役をせまられるのだろう。
こんなもんつくれやしねえ。

2011年12月13日

重たそうだが

穴水町 根木ポケットパークより能登島を望む
同上
冬晴れの能登の海にて、五輪の塔と観音様であろうか。このような晴れた12月はめずらしいことです。

ふるさとフェチです。

晩秋から初冬にかけて、ここらへんでは太陽があまり顔を見せなくなる。落葉した雑木山には紅葉が敷き詰められ、雑木山がひっそりとしてくるちょうど今頃の天気は一年の縮図のように、晴れては、曇り、時に時雨れたりして再び、一瞬陽がさしたりして、めまぐるしく変わります。ここで生まれ育ったものとしてはこの暗さとはげしさが結構好きですが、表日本からやってきた観光客の人たちの中には三日で気が狂いそうになるといううわさもささやかれたりしています。ふるさとの気候は本人からすればあたりまえなので、このような天候は他にはあまりないと言われるとちょっと、うれしかったりします。よそから来た人から聞いてはじめてそうなんだと気づいたのはそんなに昔のことではありません。中学校の地理の教科書には北陸一帯は世界でもまれな豪雪地帯なのだそうだ。暗くて、湿っぽくて、寒いところ。ちょっと好きです。
三つ子の魂の中のふるさとは停止したままです。舗装されていない道に根雪の冬。信号が初めてついた場所や初めての三階建ての建物をわざわざ見に行ったふるさとが標準となっている。全国展開されているスーパーや電気屋に行く自分に強烈な違和感がある。恥ずかしい。今は無き鉄道駅のホームの行き先表示の向こう側にはシベリアと書いてあったのは決して、冗談ではなかったのだと、今なら本気で思う。端っこ。日本の裏側で、しかも半島の突端の終着駅。暗くて寒いのはお天気なのか住民の心性なのかあいまいなまま中年となってしまった身からすれば、情報とマニュアルだけが光のようにおしよせてきていて、あたかもずうっと昔からこういう暮らしをしてきましたみたいな顔をして方言の駆逐されたレジや受付のマニュアルを必死になって笑いをこらえながら待つのはちょっと苦手です。なんだか恥ずかしい。



でも、日本の産業資本はあなどれない。コンビニの日本的発展は官民町内会一体となってもはや日本文化の一端を担いはじめているのではないだろうか。土日に息をついていた債務者に猶予を与えず、ほぼ全ての公共料金の滞納を支払えるようになっているのではないか。よく知らんけど。
けっこう好きです。簡易~器。買ってしまった。







2011年12月9日

師走

12月はなんだか気ぜわしい。急に時間が速くなる。なぜだろう。一年の終わりは何か別なものの終わりを暗示するのだろうか。終ることで始まることを感じるからだろうか。まあ、事務的に忙しいだけなのかな。単なる暦が一巡したってことか。
よろみ田んぼ街道(勝手に命名)12/9
今日初雪が降り、自宅の半径5キロ圏内にて約10センチの積雪もありました。与呂見地区は市内でも有数のきのこ産地で、積雪量もとりわけ多い地区です。地形と気候がそのような風土を形成したのでありましょう。さらによろみ村は与呂見地区よりも少しだけ標高が高いせいか、さらに雪が多いのです。わずかな積雪にたかをくくっていると、来年三月、へたをすると4月まで根雪となって自動車での入山、下山が時に過酷な試練となったりします。毎年心の準備はするのですが、何年たっても雪の力をあなどってしまい、現実の雪景色を見てはじめて冬の到来をはっきりと自覚したりします。越後や信州のような迫力がないからこんなことを言えるのでしょう。この中途半端さが能登半島のいいところだと最近思うようになりました。へなまな環境、地形(一番高い山で500メートルちょっとです)気候を他の地区に比べてコンプレックスを抱いておりましたが、いやいや白黒をはっきりとつけるような傾向を持った日本の中では希少な価値を持つのではないかと思い始めております。TPPはどうするんだと眉間にしわを寄せているマジな人たちに、てぃーぴーぴー、はぁ、みたいなノリができるとろくさい空気を残す素地があるのではないかと夢みております。そして真剣に考えるということを本気で真剣に考えるのであります。
吉崎次場弥生公園
本日私のパワースポット吉崎次場公園のそばに仕事で行ってまいりましたが、雪などまったくありませんでした。奥さんの実家のあたりなので、今日「よしざきすばこうえんのあたりにいってきてんぞ」というと「ちがうげんよ、よしざきじゃなくて{よっさき}やよ」と返されました。その響きはそこで生まれ育った奥さんにしか正確に発音することのできない方言そのものであります。長い年月を経ても、いかなる意味の変遷を経ても発音だけは維持されているという奇跡を感じさせてくれました。
夕方よろみ村に帰ると、もしかしたらまだ根雪にはならないかなと思いました。私の都合で雪が降ったり止んだりしないということはとても過酷なようでいて、とてもありがたいことなのではないかと思いました。


よろみ田んぼ街道(やっぱり勝手に命名)5/16(田植え直前)


2011年12月8日

冬菊


Kばあちゃんにもらった菊が咲いている。宿根性でほったらかしだったけれども、時節が来て咲いている。今日は実家のインターネット接続をNTTからソフトバンクに全面的に切り替えたためにモデム交換をしてきた。いろんなところから送られてくる書類の現在の状態がそれぞれ違っていてほんまにソフトバンクは実在するのかいなと思ったりもしたが、ちゃんと切り替えが終えた。東京電力じゃないけどNTTもどこか業界でのポジションが似ていてなんかえらそうだ。よく知らないけれども。
元寇で沈んだ船がそのままの状態で見つかったそうだ。以前、そばきり仁の小林さんが言っていたのだが、朝青龍みたいな心身ともに屈強な連中が何百人も大きな船に乗ってせめてくるんだぜ。
なんか怖いと同時に笑えてしまった。歴史の教科書が変わるらしい。すでに考古学では放射線を利用した正確な年代測定が主流らいしが、親父がぽつんと「元の船は実際には沈んでなくて本土上陸を果たして大勝利を収めたのではないか。ほんでわれわれはほんとはモンゴル人なのでは。」と言っていたのが笑えると同時に怖かった。なんかミステリーみたいだけど。そういやあ、大相撲であんなにモンゴル人がたくさんいて強いのもほんとは相撲を日本に伝えたのはモンゴル人なんじゃないか。で、ここで親父にシー!と口封じをする。「親父、それ以上しゃべったらCIAがだまっとらんぞ」自分のIDが自分の思っているような歴史を持っていなかったことを知るのは怖い。

米は売るほどある

ホームページの作成の土台をお願いした「十字路」の村井さんhttp://minzokugakki.com/にお米にてお礼をさせていただく。友人の宮武さんhttp://chillypapa.com/の友人ということで、勝手に友人としてホームページの立ち上げをお願いしました。村井さんはプロとしてそういう仕事をしておられるのだが正規の取引としてではなく、いわばできる限り安くページを仕上げたいというこちらの事情に沿っていただいている。で、お米がふんだんにあるのでそれをお金のかわりにというずうずうしい思いでもある。
話は遡るが、先月ひょんなことから大工道具があるけれど、もしよかったらいりませんかという話をいただき、見に行きました。普通の買い物ならば明確な値段がついていて、それが常識なのだという感覚からスタートするのだけれども、今回のは向こうの方も決して商売をするなど考えてもおられず、いざほしいものを手に入れるとき、値段をどうするのかということを自分で決めなければならなくなります。その際ほんとうにあらゆることを考えようとします。中古の電ノコの値段ってとか、これらの大工道具は急死されたその方の岳父の、いわば遺品でもあるしとか、ほんとうに何百円とかいうことを考えていたりと。果ては知りもしないのに国際情勢にまで頭が及んだりと。
もじゃもじゃ考えていると、支払いはお米にならないかと思いました。自分の中で、お米がお金になろうとしているのであります。つい二百年前までお米は通貨の基本単位であったではないかと思ったりもして。お金はないけれども、お米ならあるといばっている自分の発見であります。
今年は豊作で龍昌寺の村田住職の友人の方々や江崎満さんや福田さんやよろみ村の住人達の地縁血縁だけではさばききれない量のお米が倉庫にたたずんでおります。現金収入のためにお米を売り現金に換えるということの一行程を省いてお米で支払いそのものができないかと夢想いたします。と同時に物をつくって売るという行為には決して損得勘定だけではない、人と人との交流がぬぐいがたく存在していると実感いたします。 現金資本主義という大きな壁は以外に簡単な方法でローカルな問題としてリセットできるのではないかと考えてしまします。Think globaly Act localyであります。
 ともあれ、通貨、貨幣、現金というのは今を生きる人間の本質にいやおうなく接近させられる重要なキーワードのような気がいたします。ただということとゼロ円とは違うのだそうですが、言葉は我々自身の思いをさしおいて、それほどまでに重責を担わされていくのかと思います。

自家製の増築。部材集まりあとは電ノコがあればと思ってました。高桑さん、ありがとうございました。

2011年12月7日

整理整頓

整理整頓ということばが好きだ。ふつうのサラリーマンになれればと進学した大学にて出会った複式簿記。いわば会社の活動のほぼ全てを記録する完璧な帳簿(つまり記録の集合)体系なのだ。決算書と関係帳簿を見れば有能な経理マンならば会社全体の息吹が感じられるらしい。もちろんお金の出し入れをともなう事象だけが記録されるのだが現在の銀行資本主義終幕においてはほとんどの人間活動は金銭を伴うだろうと考えられる。かの文豪ゲーテが複式簿記の体系を人間の考え出した記録システムの中で最高のものであるらしいと言う教授のことばが耳にこびりついている。うろ覚えの記憶ではそうした完璧な記録システムの成立には三つの前提があるらしい。
1 永遠に経済活動が続くこと
2 貨幣に換算される事象しか記録の対象としない
3 一定の会計期間に区切って記録する
メモです
だったと思うが違うかもしれない。複式簿記を完璧に自分のものにするという意欲の強かった時期に捏造した妄想なのかもしれないとも思う。複式簿記の三大原則を探してもみつからない。完璧な記録システムの構築は司馬遷も夢見たと思うのだが。上記三つの前提の全てをありえないと笑うに違いない。意識を抽象化してしまったジンルイにとって自分達の記録システムの確立は避けて通れず、かといって到底実現不可能なことのように思える。通貨としての貨幣ですら永遠ではありえないことが現代文明の推進役のヨーロッパの一小国ギリシャで証明されようとしていることは偶然ではないように思える。これまで一つの文明のおわりを記録したものは戦勝国であったように思うが、今度の記録はいったいどんな主体が為すのであろうか。
 チョコ  ♀

年明け早々に我が友、青原兔ことマキちゃんが死んだ。




2011年12月5日

大阪へ

前略
娘の住まい探しのために大阪にゆく。
12月4日午前3時出発。冬型の天候にて風雨強し。誰も走っていない能登有料道路をひた走る。
アサヤケに合わせて北陸自動車道より名神高速道路へ侵入。裏日本から表日本へ。大阪に入るころにはポカポカ陽気。いつも思う、こんなに対照的なのかと。
新大阪駅付近に入るといったいどこをどう走ればいいのか見当もつかない道路が上下左右前後に広がっている。隣りの娘がへんな看板を見つけても、あれ何だろうと聞いてきても視野は狭いところを凝視しそうになる。狸やネコだけを注意していればすむような慣れた道からいきなりこれはないだろうと思う。
中略
不動産屋さんの担当者の人のたくみな段取りの後をぺらぺらと言葉をつなぎながらくっついていく。
全部で7つの部屋を見る。部屋の諸条件をできるかぎり見ようと思うが何一つ凝視できない。とにかく明日の朝返事しますからとスケジュールを終える。駐車場のマイカーを予約したビジネスホテルに運ぶ道順が不安で不安でしかたがなく、帯同する娘にここを右にいって左にいってこうだよねとだよねを連発。娘が予想以上に感がよく助かる。
後略
12月4日PM7:00 ホテルに到着。イケメン不動産マン オオノちゃんありがとうございました
ホテルにて今日のセッションを振り返りながらずさんなメモ書きだらけの物件情報のコピーをカルタのようにベッドの上に並べる。娘にどれがいいと聞いておきながら、娘がやっぱり私はこれがいいという物件のコピーを押さえて、だよねと言う。部屋で一服できないので地下駐車場まで降りて吸う。扉が開くとちゃんと灰皿が備えてある。俺の意図などちゃんと読まれていてすがすがしい都会の配慮。
12月5日午前9時バイキングの朝食。新大阪駅前の安ビジネスホテルのレストランの窓際の席で娘と向かい合わせにて食う。幸い朝からのカレーはテンションを上げるのに最適だというキャンペーンのおかげで何を食うか考えなくてすんだのだった。食後の一服を地下駐車場のエレベーター前で吸う。
今日は月曜日 街の空気が一変 街が働きはじめる
すでにホテルのクラークが一人ケイタイを触りながら一服こいている。ここでは客とホテルマンではなく二人の同人なのである。週明けのビジネス街のざわめきが新鮮で心地いい。契約をすませてもう一度決定した物件を見てから帰路につく。
北陸自動車道 金沢東付近 シェルタリングスカイ
帰りは来たところをそのまま戻り無事に高速に入る。後は信号もなくただアクセルを踏むだけでいい。われわれはいつのまにか灰色になった景色の中を走る。車中はほどよい騒音と振動のおかげで深くも浅くもない話をすることができる。ただハンドルをにぎり、ただ思いついたことを話す。
北陸自動車道 安宅PAのトイレより撮影 展望台寒いのでここで
12月5日午後6時、無事に輪島に入る。まだおれの心は大阪においてきたままだぜ、ここはまだ大阪なんだと詩人面するも娘は返事のしようがない。まるで宇宙から帰還したふるかわさんのようだとダメ押し。ぜんぜん次元が違うけれど構造はおんなじなんだとさらにダメ押し。なんか言ってくれるとだよねと言えるのに。
名神高速 草津PAにて買ったアンパンが関西への郷愁を誘う。
今後のお金のことを考えるばかりのおれの心はおれのだいすきな北陸の暗い冬とおんなじなんだぜと娘には言いたい。往年の明大野球部監督島岡さんのようにおれの心はおれに「なんとかせい」と言うしか手がないのであった。(ちなみに島岡監督は全くの野球素人で応援部団長だったと記憶しております)

2011年12月3日

大菩薩峠

あとづけでなくて、中里介山の大菩薩峠は人生を変えた本だと、今なら言える。12年前まだ30代のJUSAIが新聞の書評でたまたま知ったのだった。変わりすぎて本人にも気づかれないのが本当の」出会いではないだろうか。意識過剰の時代には自分を変えてくれる本をあからさまに探してもしまうものだから絶対にそんなものありそうもない。が本当に前とは変わってしまったのならば、どんなに変化が大きくてもそれを変化とは受け取れないのではないだろうか。ややこしいけれども本来、人の自意識なんぞというものはスカシッペのように形のないものだから何十年も同じ自意識であるはずがないのではないか。自分は変わったと言っているうちは全然変わっていないと言っているのと同じことなのだ。話が、どんどんややこしくなる。この話を、「とりあえず止めてくれるのが「仏教」であり、「坐禅」であると今は信じております。
にしても、PCにて詩を書いたり、小説を書いたりしていると縦書きということに興味がわいてきます。
出会った縦書きサイト、『縦書き文庫』には大菩薩峠の特別コーナーがあるようで、大菩薩峠のテキストの威力というか魔力はまだ続いているのだなあと思いました。読書というものは簡便な趣味のようでいてとても奥の深い行為なのだなあとしみじみ感じております。

2011年12月2日

このへんで風呂屋をやっていたのだ。

市役所に来たら昔の輪島市の写真展をしていた。見たことがない古い景色だがなつかしい。やっぱり今見えている景色の後ろでちゃんと昔の景色も重なっているんだな。自分のふるさとですから。好き嫌いを越えているのだな。誰が何と言おうとも。
JUSAI の誕生年だ。

このへんで銭湯をやっていたのだ。

年取れば 年取るだけの ふるさとよ

自家水道



よろみ村は龍昌寺の住職が器用なせいなのか、金が無いからできる限り専門業者に頼まずに自力でしようとするからなのかわからないけれど、小屋まで自力で建てると驚かれるほどに自家製が多い。だが、自家製が多いということはその人がいなっくなったら、後に残った人が困ってしまうことになる。だから誰かにこれこれはこれこれだからと教えておかないととんでもないことになる。
ファーストフードのマニュアルはその点、どんなばかでも文字さえ読めれば誰でもできるように全てのことが形式化されていて気持ちがいい。教える人と教えられる人の人間関係とかさまつな問題が全然なくていいなあと思う。(ただ残念ながら心を込めることができない。この問題は明日から)
さてよろみ村は水道も自家である。断水はもはや日常のできごとになってしまった。あまり自家水道のことを書くとのちのち水源に毒でももられたら困るのでのせないが、とにかく最近伏流水をためる一次タンクに注がれる水量が少ないと思っていたのだが、今日その原因となる場所を特定することができて、水が前のように注がれることになった。水道は高いところから低いところに流れるだけなのだなあ。11月30日のことであります。

水はここまではきている。


順番にみていく。
最後の最後がつまっていたのだった。



水が出た!

2011年11月29日

斉川と 2011/11/29

サイカワはつらそうだった。なんとかはげまそうとして言葉を話すが、ありきたりの言葉ではダメなような気がして正しい言葉をさがす。沈黙がこわいので口は頭を置いて語り出す。
その言葉はとても自分にとって正しいが、そのときにサイカワはもういない。

大脳にだまされないように
ときには大脳をだますように
小さく頭を振るだけで大脳は簡単にだまされる
でもそこで喜んでいたら全てはだいなしだ
でも
もう大脳とケンカをするのはやめよう
大脳とうまく付き合おう。

サイカワは布団から体をおこしていた
いまの言葉が効いたのか、予定の時間がただおとずれただけなのか
目の前にサイカワがいる
サイカワとスズ

六角文庫へ 詩集「オリオンの扉」


 与呂見村 *一九九三年・夏



鬱蒼と私がある。
私の私ではない。
あなたの私。
燦然ときらめき、
蔓を伸ばし、
駆け回り、
枯死する、
蘇生する、
雨や霰の、
澱粉や蛋白質の、
彼らの私。
与呂見と名が付くものの全ての私。

日はどかどかとあり、
心もどかどかとある。

五家族  二十三人
居候     二人
馬      一頭
山羊     一頭
犬      一匹
猫      一匹
鶏     四十羽
田     二十枚
畑      五反
鍬      十本
鎌     二十本
スコップ   十本
穴窯     一基
炭焼き窯   一基
古耕運機   一台
古トラクター 二台
二屯トラック 一台
運搬機    一台
一輪車    五台
脱穀機    一台
発電機    一台
作業小屋   一棟
納屋     一棟
薪小屋    一棟
家屋     五軒
寺      一宇
水源     一処
書庫     一間
出納帳    一冊

どかどかと仕事はあり、
どかどかと空腹は来る。

これらまるごと、
ずーんと茂り、
人間だけで百本の手足、五百本の指、
それぞれ全開、合せて百二十五感が立ち動く。
空は無窮の、
雲は無涯の、
ここ。
いま。
牛虻が疾風し、蝦夷蝉が沈吟し、蜩が怒濤する。
蛹であるもの、卵であるもの、
生体であるもの、死体であるもの。
小楢から水楢、水楢から朴へ風は移り、
朴から楓へ、鳥は移る。
鵯であったか、懸巣であったか?
この山では、
鵺が鳴き、梟が鳴き、
鵤が鳴き、時鳥が鳴く。
わー・おじなんぞは赤翡翠を見かけたことも。
これらまるごと、
ずーんとうねり、
恒河のように、
澱河のように、
銀河のように、
澄んでは濁り、澄んでは濁るものの、
どこからどこまでが、
それぞれ、私なのか、
あなたなのか、彼らなのか、
そんな人称の網ではもう掬い上げることも出来ぬ。
みー・おじ風に言えば、
なんつうか、
ただもう鬱蒼と、
大根の私、
蕪の私、
玉葱を剥くような私が、
いるのだよ。
転載 泉井小太郎 作 http://rokkaku.que.jp/baku/poem/poetry.html

1993年当時、まだ私はおらず
私も私なりに与呂見村を見ていました
その私が与呂見村に入りました
現在ただただ与呂見村を言葉にすることの中に暮しています
そういう私はひたすら金がない金がないとうめいているだけなのですが

2011年11月28日

JUSAI本棚 更新


私の好きな作家は
夏目漱石
芥川龍之介
坂口安吾
時代が飛んで
中上健次
です。
明暗の中に出てくる小林という人物がずっと気になっていました。生まれた家が角地で、そのはす向かいがどちらも小林という家でした。もともと小林という姓はどこにでもありますが私の中では物語ができており、今住んでいるところにもたくさんの小林さんがいます。

2011年11月27日

JUSAI本棚 更新


JUSAI本棚更新しました。
坂口安吾です。


この人の文章はPC上でもかわらない意味を伝えている。伝えたいことを明確に記録できることが才能であって、内容は必ずその次の新たな問題だと思う。

2011年11月26日

六角文庫へ


兵庫の六角文庫から転載させていただきました。

リンク元↓
http://rokkaku.que.jp/baku/poem/poetry.html

このブログのアオサギのページへ↓
http://jusai123.blogspot.com/2011_06_01_archive.html
 アオサギ ― 仙の飢え

風に吹かれて

脛を濡らして

細い目

長い嘴

仙の風情も

なかなかに

世界に佇って

もう

てこでも動かない

そんな決心と思えたが

ふと

魚影が走ると

つーと

首を差し伸べて

なれは鳥の子

われは人の子

飢えて夕べに徘徊し

飛んでは

素っ頓狂な声も出す
作 泉井小太郎 →http://rokkaku.que.jp/index.html



2011年10月14日

コバヤシバアチャン2


新さんは若いときから世界中を旅してきた人で、田舎者の私には眩しい人でありました。さわやかで優しい人であります。優しさのあまり良いにつけ悪しきにつけ相手にとっての核心をズバリと話してくれるうそのない人であります。
 田んぼの中でデジカメでコンバインの後ろ姿を撮ろうとしていたら、なんでうしろから撮ってるのと言われました。ブログなんてのは田んぼや風景もいいけれど、人が何かをしている感じがわからないとつまんないんだよと言われ、カメラを奪い私の写真を撮ってくれました。(新さんはプロの写真家だった時があるのです)デジカメは何にも考えないでたくさん撮ればいいんだよ、ダメなやつは削除しちゃえばいいんだからさと近くにいるソウル君を撮ります。
 午後コバヤシバアチャンが私も手伝うよと稲刈りをしています。稲が引っかかってコンバインを手入れしながら新さんの方向に目をやるとちょうど休憩していた新さんがコバヤシバアチャンをマッサージしています。(新さんは今草津温泉にてマッサージの仕事をしながら長野に定住しているのです)ちょっとだけマッサージしているのかと思いながらそちらに目をやるとコバヤシバアチャンはアスファルトの上に気持ちよさそうに体を横たえていて、新さんは本格的にコバヤシバアチャンの体を手入れしています。イヤミなくさらっとそのようなアクションができることに感動をおぼえました。新さんの背筋は一直線に伸びており新さんに撮影された己が身体の中心線は見事に傾いております。自意識上の己が姿はまっすぐに空に向かってまっすぐに伸びておるのですが、現実は地面の方が傾いているのかと思えるほどにだらしなくぼおーっと突っ立っているだけなのでした。
 今日はだんだん空も晴れ渡ってきてにぎやかで楽しい一日でした。明日からは自分の体がまっすぐ垂直に地面に立てるように努力していきたいと思います。



2011年8月22日

フィールドワーク




 田んぼほど政治的に区画されたフィールドはない。自然の中で自然の一部のような顔をして、うさんくさい場所だ。江戸時代役人の給料の基本単位にまで登りつめたお米は抽象化されて、石高だけが田んぼというフィールドの性質を指標するようになり、同時に米を育てるという現実の機能さえも忘れられて尚古き善き日本の象徴にまでされてしまったのだ。
 今の日本人は古き善き時代の田んぼに思いを馳せてただ泣けば全ての過去が水に流されるだろうと思っているのだろうが、それでは田んぼを美くしく見えるまでに実際の農作業を続けてきた先輩たちの恩にむくいることは不可能だろう。
 耳をすまして何百年前の稲穂を夢想し、田の隅々に目をこらして何百年前の村の風景を夢想するには実際に田んぼの畦まわりをオロオロ歩き(宮沢賢治はあんまり田んぼには入らなかったのではないか)、田の中のドロに足をとられながら、なんでこんなに草が多いんだと喚くことが近道だ。 
 田んぼなんて、人がつくった恣意的な区画に過ぎない。


2011年7月4日

田んぼの神様



どうにか田んぼらしくなってきた風景を横目に目の前の草を刈る。取捨選別なしに田んぼの内外の稲以外の植物を消す作業に田植え以来ほぼ一月を暮してきた。稲のために、稲のためにと変質者の目で田園の中をうろちょろしてきた。が、我が目は稲だけをしかと見ることができずに、おどおどと水を田んぼに入れ田んぼの土が露出しないようにと水位を一番にしか見れなかった。
田んぼによっては、持ち主の家がそばにあったりして庭先の小さな畑をやっているように見えて水をいれようとする私に田んぼにはじゃばじゃばと毎日水をいれてはならない光線を発してきます。(ほとんど病気の世界です)私は私の信念で水温よりも、あるいはそうした慣行農法よりも深い水があることをなにより優先しますから両者はあいいれることはありません。さびしいです。
他の田んぼでも同じように(ほんとうに善意で)勝手に水の入り口をふさいでくれる人もいます。この時期は水を干している田んぼがほとんどですから無理もないのかもしれない。がやはりさびしい。
新規参入(でも30年は経っている)で、村の行事(もう、そんなにない)にまったく参加していないのだから構造的に異物のようなものだ。
顔もほとんど覚えあい名前もほぼ一致する関係性は育っているのだから出会えば、会話も弾んだりするのだが構造はいかんともしがたい。
今日は神社の前の田んぼの草刈をした。私のような異物からすれば、最もあこがれるべくして存在する神社である。荒起こし以来草を刈っていないから草は散々に緑を誇っている。ヒメジョオンの白い花の群れの中にわざわざ植えてある赤い花が咲いている。名前はわからないが、思い入れをいっぱい受けて咲いている。雑草と思わなければ、それらの雑草(名前のわからないのが多いので)は美しい。茎の数を徐々に増やして揺れる稲の整列よりも美しいと思えたりする。いや稲も雑草もみんなひとつの風景と思うだけで目に見える全てが美しい。稲と稲以外、古くからの人と新しい人、科学的な信念にもとづいた知識による農法と先祖代々伝えられた実践による農法、もっと例示するならば自分と自分以外というたくさんのわけへだてる行為から逃れられるのではないかという希望を感じる。
その時私は近くにいるじいさんやばあさんと仲良くなっている。なぜならばこの喜びが覚めないうちにこの喜びを誰かに伝えたいと願っているからだ。田んぼの神様はそのような妄想にあけくれる男をやさしく見守ってくれている。


2011年6月27日

アオサギ

アオサギは最近はちょっと近づいただけでは、田んぼからどこうとしない。でもその姿を撮影しようとしてデジカメを持っていると車を止めただけですぐに遠くに去ってしまう。一日中田んぼを歩いていてくたくただった夕刻、隣りの田んぼで田面を凝視しているアオサギの彼がいたのでこちらも凝視した。  彼は全く私と無関係なところにいるような気がしてなんだかほっとする。小難しい問題や大問題にまみれている人の世界とは全く関係なくエサを必死に採ろうとしている姿にほんとにほっとしました。非常に迷惑な存在なのですが、存在者としての彼の私との接点の無さに心打たれました。精巧なロボットのような絵に描いたような色彩の彼は息をし又自力で動いている。写真は2009年度のものです。


2011年6月26日

6月24日現在の田んぼの様子


いよいよ田んぼの雑草とのたたかいも峠を越えようとしている。できるだけ楽に田んぼをやりたいという願いが少しずつ成果をあげているように思う。草が生える条件を一つづつ消して、生えてきても成長を妨げるような条件をつくりだし、そんな過酷なフィールドで最善をつくし幸運に恵まれた草を畦ぎわから呆然と眺めるということをやっている。用水の水が不足して深い水をためられなかった田んぼの惨状をみかねて、田んぼに入り素手で草をむしりとりながら、自分になぜだ、なぜだと問う。
草はただ条件がそろったから生えたのだろうか。ただやみくもに生えてきたのだろうか。そこに種としての意志はないだろうか。みんな生きよう、子孫を残そうという願いを持っていないのだろうか。われわれの言う意志などということばを吹き飛ばすほどの種としての意志があるような気がする。田んぼは人間が作り出した不自然なフィールドではないだろうか。自然という言葉の属性を考えるとなると膨大な知識がいりそうでしり込みをしてしまうが、あえて言いたい。
いくつもの田んぼが並んでいて、耕作をしていないものも含めて田んぼは日本の原風景というような顔をしているが、そこに集う幾種もの雑草や初期の早苗を踏みつぶしてしまうアオサギや鴨それに田んぼの畦に大穴を開けてしまうモグラも立派な原風景だ。どうしても稲を中心にしてみる目からは人工的な自然農法しか生み出せないが、そうした邪魔だと思っている動植物の邪魔があってこそ今現在の田んぼのリアルな風景が始まるような気がする。そしてよりよい気象条件に恵まれなければいかに人間が努力してもお米という品物は生まれにくい。宮沢賢治がオロオロと歩きながら見ていた風景も古きよき日本の原風景といったおおげさなものではなくて、こうしたリアルな今現在の田んぼだったと思う。
朝一番に今日一日の仕事の段取りを考えて田んぼ廻りを始めるのだが、へたくそな離着陸で稲を踏んでしまう鴨を追いかけて朝一番に自分の予定がはぐらかされて、でも鴨のかわいさにまあいいかと苦笑いしたりしながら再び畦を歩くとまあ見事な大穴が畦に開いているのを発見したりします。田んぼは想像以上に大きくて本当はここの畦を歩く予定もなかったのに鴨のおかげだと思えたりします。そしてその大穴をこのくそモグラめと言いながら踏みしめてふさぐと気のせいか稲が風に揺れている姿が稲の喜びと重なります。そしてなによりその喜びは私自身の喜びでもあります。きっとそこに自然そのものがあるのでしょう。私が気付かなかっただけで自然は自然としてあり続けていたし、またこれからもあり続けるのでしょう。

2011/6/2 yoromi Tsyoutenura

2011年6月21日

そろそろ雨が降ってほしい


田んぼの水廻りをしていると、だんだん大きくなっていく稲が大きく風にゆれているのを目にします。自分が責任を持っている田んぼと他の田んぼでは見え方というか、見方そのものが違います。自分の手塩にかけた田んぼは自分の持ち物のようでいろいろな言い訳を考えながら今現在の状態が最善であると思いたいのだが、同時にこうではなかったといろいろな後悔も去来します。いわば田んぼの今現在の有様、状態あたかも自分の心の今現在のありようも示すような気もしてなんだか恥ずかしいという気持ちもいっぱいです。
おそらく田の農民はそのような見方をしていないでしょうし、見ることすらしていないかもしれません。まあ自意識過剰の受け皿として稲が風に揺れる姿があるわけです。畦の水漏れを見つけては喜び、明確に漏れた場所がわからず水が田んぼにたまらない、たまらないと憂いたり、用水におおきな排水口のような水漏れを見逃しておきながら用水が細くてこのままでは稲が田んぼで干上がってしまうと大騒ぎしたりととても忙しい日々が続いています。
いわゆるスタンダードな方法の田んぼではもうすでに水を切り、少し田んぼを干し始めています。われわれの田んぼは中干しどころか水をできるだけ深くためて栽培しますので水の必要性は益々高く、水の入っていない田んぼのすぐ横でダバダバと用水の入り口を開けて田んぼに水をジャブジャブと入れています。
皮肉ではなくてほんとうに親切な与呂見地区のおじいさんやおばあさんは私の顔を見るたびに「もう水はいらんげぞ」と大きな声でどなります。与呂見地区の家々の田んぼは約17枚ほどありますが、各所にそんな声が待ち構えていて気の小さい私は少しオドオドしながら水廻りをしています。米ぬかをいれて深水で稲を育てる方法に確信を持っているつもりですが、心はほんとうにこの方法が最善であるのかと問うてきます。
もちろんこれらの対話はまったく静かに自分の心のうちになされているだけですので、自分自身だけが感じる喧騒は外には漏れていないのだと思っていますが、稲には伝わっているかもしれない、田んぼの水まわりをしているもののブレはただちに稲の生育に影響を与えるのではないかと疑っています。水位の低下が激しい田んぼの水漏れの原因をつぶした瞬間に稲は風に揺れてその安堵とその喜びを即座に表現しているように思われます。
どうにも客観的にというか、正確に田んぼで何が起こっているのかがわかりません。田んぼを思う自分の心の動きと稲の実際の生長を混同してしまったり、必要以上にドラマ化してしまうのは大げさな性格のせいではありましょうが。
ただ一つ感じるのは時代というか政治制度や文化が少々変わっても田んぼの基本的性格は不動であるということです。水を必要とすること。そのためにこれからの農民もがんばるのだろうということです。治水の性質上、個人的な単独行動は制限されムラゼンタイという発想は消えることがないでしょう。そこにどんな名前の政治制度や経済制度が被せられてもです。そのような田んぼの自立性に私自身呪術的な性質を被せることなく田んぼの過去や将来を考えられたらいいなあと切に願っています。


2011/6/11 sakata yonmaida

2011年6月12日

やすむぞ2


民主党の補助金制度のせいであろうか、長年休耕していた田んぼで田植えがされている光景に出くわします。田んぼが復活することはめでたいことなのだとは思うのだが、うがってみてしまうとお米の生産量と補助金が第一義で、田んぼ自体に目がいっていないのではないのかと思ってしまいます。もちろん、お金が悪いと言っているわけではないですし、生産量はとても大切な目標であることは間違いないですし、何も古き善き田んぼというような国粋的な思想によるものでもないのですが、なんだかさびしい。
笑ってしまうほど、丁寧に草刈がなされている畦道や周辺の様子をまるで家の中を手入れしているようだと思っていた近隣の農家の人たちの仕事ぶりが実は日本の美しさのかなりの部分を育ててきたのではないかと思えます。
そうした丁寧な仕事振りに比べたらわれわれだって土木的な仕事ではあるのですが…。
なんというかわれわれは頭で田んぼ仕事をしているが、在来の農家の方々は身体全体で田んぼにいるというか仕事ではなくて人生のしっかりしたひとコマを営んでいるというか、時間をしっかりと積み重ねているというか。
きっとお百姓さんはおれの田んぼなんて思っていなかったのだろうなと思う。先祖から受け継いだ田んぼを当然のように子孫に残すためにやっていたのだろうと思う。言葉にするとちょっと変だけれども、そんなに自分のことを言語化していなかったんだろうなあと思う。


2011年6月11日

雑草との戦いであります



誰も種をまいていないのにもかかわらず、雑草はコンクリートをもつきやぶって生えてきます。よろみ村の田んぼでは長年、田んぼにみんなで入って草取りをやってきました。みんな年をとったり、めんどくさいのはたまらんと思ったり、あるいは書籍にて米ぬかがきくというのを読み省力化でいいのではないかと考えたりしながら現在では田んぼに米ぬかをそのまま散布して田んぼの水を発酵させて、濁らせて光をさえぎり、深水による酸素供給の停止効果とともに雑草の発芽を抑えるというやり方を実践して数年が経ちました。
当然のこととして水を大量につかいます。幸いというと我田引水になってしまうのですが、休耕田が多い当地では比較的自由に用水を使わせてもらっていますし、もともと水に恵まれている場所ということもあって水の乏しい一部の田んぼを除いてうまくこの米ぬかは機能してきました。雑草を抑えるとともに肥料効果もあり年々目に見えて発芽自体がむずかしくなってきた田んぼもできたように思います。
田んぼをやっておられる与呂見地区の方々はとても仕事がていねいで上手に適量の水を使うので尚更水には困らずにやってこれました。
しかしみんなで田んぼに入らなくなって田んぼ仕事も効率的になったのでしょうが、どこかにさびしい思いがよぎります。手で除草をしていたときはそれこそ6月いっぱい、2、3回は約34枚の田んぼを巡回していましたから…。一生懸命だったのです。なにより田んぼというのは不思議なフィールドで、いやいや入ったにせよ一端入ると黙々と目の前の雑草(要するに稲以外の植物)をとることだけしか考えられなくなるのですから、おいしいお米のためになどという雑念も消え果ててただ、田んぼにおるのですから稲がその熱い思いに気が付かないはずがない。
よろみのお米のおいしさは人間の労働量に比例しているはずだと思いたい。
その風景が全く消えてしまったのだからさびしいです。いまや草取りは個人的な仕事になってしまったような気もします。別にみんなが仲良く田んぼに向かっていたわけではないけれども田んぼはそんなバラバラを一つの風景に仕立て上げる見事なフィールドだったと思います。
いつまでも感傷に浸ってはおられませんが…。新しき田んぼの風景が広がりますように。願わくば、土木工事をやっているような田んぼ仕事になりませんようにと自戒しております。何千年も続いた田んぼが我々のこざかしい農法の小さな変化で変ってしまうとは思えません。



原発を拒み続ける小さな島

 現実ってあんまり大きすぎて目に見えない たいへんなことが起こっていなくても やっぱり大きいのだろう あんまり大変すぎると ニュースにもならないし 正確に起きていることを説明すると 結末のないというよりは結末しかない 物語のようにしか聞き取れない 読めない物語のようだ 国際的に信頼されている機関の説明が まるで出来すぎたシナリオになってしまうのは恐ろしい 
相変わらず責任者の顔が目に見えないのと 放射線が見えないのとぐちゃぐちゃになってしまい 最終的には各人がどう読み取るかしか手がないではないか 世界は 日本は もはや全体がパニックなのではないか もともと明日は希望とともに成立するのならば もしも明日がまだ人間のもとにあるのだとして 昨日のような顔をした今日がまだかろうじてあるのならば どれほど悲惨な物語が今進行しているのだろうか
こどもたちはみんなちゃんと大人になれるのだとして 未来の大人は今日の大人をどのようによんでいるのだろうか かっこいい大人たち
をみつけることができるのだろうか

2011年6月6日

あんたにゃかなわねえなあ

 ソウルという名前の青年と小さな旅をする おっさんと若者だからそうそう話は合わない こともないのだ こいつのとおちゃんはその世界ではものすごい有名人で その遺伝子を直接うけついだ目の前のこの若者は やっとそのことに気付きつつある いや遺伝子同士だからよそもののおいらにはわからねえ世界の話かもしれない ネムと呼ばれたこいつのとおちゃんの話が車中で話題になる すごいなあ、すごいなあとうなづきつつも どこのなにがすごいのかはちっともわかっていないおいらの大脳は ときどき本人の意思にそむいて一服こいてやがる が、ネムさんのことを考えるとしみじみと笑いがこみ上げてくるおいらなのだ 一服こきすぎて空腹でダメを押された大脳とともにすしべん(当地で有名な飯屋さん)にはいって カツどんを食う あまりのうまさに満足すると視野のかたすみにおっさんのオーラが侵入する 偶然をおどろく前に全ては定められた運命のように展開する ネムさんの実物がおれらのテーブルに近づいてきてすわると カツどんを注文した それは、まぎれもなくネムさんの本物だったのだが それでもなお、ネムさんのイメージを追うしか手がなかった今日の私でありました まあただの偶然ですけどおー ネムさん画像あり(撮影 村田和樹)

2011年6月5日

田植え終る


ようやく、田植えが終わった。代かき(田んぼの耕運です)をして翌日田植えというセットが6回で12日かかりました。田んぼが34枚で、3町3反といってもなんのことだかわからないですね。やっている仕事は田んぼに水を入れてトラクターで耕運して、田植え機で植えるだけなのですが、面積の単位も想像しにくいと思います。
田んぼの基本単位が300坪で一反(たん)、これが10枚で1町です。よけいに広さがイメージしにくい。実際に田んぼに入っている私も毎回入ってみて、広いなあとか、以外に狭いなあとか感じるだけで田んぼ自体の説明もなかなか言葉では難しいのです。とにかく、ほぼ平らなフィールドが畦という囲いで囲まれていて、土をトロトロにこねることによって、水がいっそう漏れにくくなる場所という以外に手がありません。
近所の農家のじいさんばあさんも小さいころから仕事というだけではなく生活の中の風景の一部として身についていて、いや生活そのものとして田んぼがあたりまえにあったのでしょうから、なおのこと言葉で説明する機会すらなかったのではないでしょうか。
私などは農家とは直接関係のない給料生活者の家で育ち、田んぼってどんな風になっているのだろうというただの好奇心から始まったので、当然本や経験者の言葉でスタートして今に至っています。20年ほど経ちましたが、今にして思えるのはもちろん、本の知識も相当に役立っているのだけれども、毎年晩冬から晩秋までほぼ同じ行程を繰り返してきて時季ごとのお天気の中で、この身体が直接田んぼというフィールドから感じてきたものがきちんと積み重なって今年の米作りがあるのではないかということです。
川の水をせき止めて長い用水路をクワで掃除する時や崩してはまた塗りなおす畦を眺める時に自分の視線の中にもうとっくの昔に死んでいる農夫や近年亡くなられたじいさんの視線を自分が見ているという錯覚にとらわれることがあります。生前何のコネクションもなかったじいさんが縛った縄を見たり、隠れた排水口を示す記号のような杭を見て涙が出そうになったことがありました。あるいは、まだ生きているのに、急激に老けてしまったじいさんを見てごくろうさまでしたとつぶやいていることもあります。
かと思うとカエルやカッコウやアオサギやその他もろもろの生き物たちの若々しい鳴き声にうれしくなったりもして、まわりから見たら黙々と(仏頂面で)田んぼのそこかしこで仕事をしているように見えていろいろ考えているもんだと関心します。(自分を)
在所の家々は丁寧な佇まいをして建っていて、畑のそばには南無阿弥陀仏と刻印されたお墓がぽつんとあります。在所のじいさんばあさんは文句泣く季節の循環のようにして、そこに入るのだと疑いなく決めているのではないだろうか。死ぬのはあたりまえだとわかっているのではないだろうか。頭ではなく頭も含めた身体全体にそうした法則がお墓に刻印された南無阿弥陀仏のように刻まれているのでないだろうか。
無限の彼方から始まったのではないにせよ、相当長い年月の繰り返しの中で、土をいじり、道具をふるうそれら農村の姿に自分も少なからずいいものを受け取っているのではないだろうかと思います。自分でもわからないのだけれども、もしかしたらそのわからなさは言葉にしようとすることから始まっているような気がしてきます。静かに世界に耳を傾ければ聞こえるような気がします。目だって、鼻だって、ほんとうは想像だにできないような記号というか信号というか合図というか、うーむわからないけれども、何かあるものを感じているような気がする。
何と言ったらいいのかわかりません。




2011年6月3日

助かります

ちはるにそうるにおとわきくん、ありがとう。ほんとにラクチンです。田植え機が入らないところは手で植えなければならないし、田植え直後に米ぬかを手でまかなければならないし、人出が即、戦力なのです。なにより、にぎやかでおまつりみたいでいいです。にしても、小さな田んぼにいったい何人いるんでしょう。

いまだに現在進行形の

Kさんのリヤカー

こざかしい知識などいらねえ

いかにもみたいなのはなおさらいらねえ

田んぼは毎年つくられてはこわされる

来年の種もみだけがそれを知っている

何千年かはしらねえけど

一世代もとぎれていねえからすばらしい

こんな大きな話じゃなくても

小さい話もすばらしい

こざかしいのははずかしい

こんなことをいっているおれさまが

こざかしい はずかしい

Kばあちゃんの仕事量に関して

ばあちゃんだいじょうぶかい

そんなにふらふらしてだいじょうぶかい

もうとしなんだからゆっくりやればいいじゃん

やさしくてまじめなおれさまはばあちゃんの心配をするが

ばあちゃんの手は何十年もくりかえしてきたしごとを

追いかける。ちょうどよいタイミングで、今できる最善の速さで

ごちゃごちゃこざかしい知識だけでものを言うおっさんに

見るに見かねたようにしているのは

ばあちゃんのこころではなくて

ばあちゃんのしごとそのものだ


2011年5月29日

田んぼの水位を安定させる


ここ与呂見地区のように、日本全国に山があり、谷があり、川があり、雨が降り地下水は脈々と流れていて、能登のような低い山しかないような場所にもここかしこに水脈があり、それをうまく利用した形で灌漑のための用水があって、田んぼに簡単に水が入れられるようになっている。そして田んぼ廻りをする人の手によって温い水が安定してある状態を保っている。治山治水などと大げさに言わずともたくさんのお百姓さんが同じように稲を育てている。一人の人間の性格や彼の属する社会の形体や政治経済というような説明事項などを越えて、日本という国土のかなりの部分がこのような小さな治水によって育てられてきた。そしてほぼ共通する心性を育ててもきた。
だから我々が30年前に小さなコミュニティーを作って、自らの食べる米を自らで育ててきたという歴史的なことをも越えて田んぼをやるということは絶対的にこの場所を具体的に定義付けるのだ。それくらい田んぼというフィールドは具体的な事実として一回一回の米作りの積み重ねとして確実に存在する。
そうした千年単位の積み重ねを台無しにするような失敗がかなりあったということをここに報告したい。暗渠排水という田んぼの地中に埋められている排水設備のフタを閉め忘れたり、開き忘れたりというケアレスミスをも含めて、あるいは肥料設計の失敗や、千年の未来を全く考慮にいれないような稲作全体の計画などなど。
こうした明確な失敗のフォローを、無前提に大自然が克服してくれるだろうという甘い依存心から、田んぼにだけ任せてしまう。
用水を見回ったり、田んぼに水を適宜いれたりというひとつひとつの仕事をていねいにやりたいと思う。幸いにして、今は降雨予測がピンポイントでなされているのだから、それもきちんと利用したい。
ただ、放射性物質のことを思うとどうしても全てが無に帰するような気がしてただオロオロするばかりなのだが。とにかく今年の田んぼに集中したいと思う。