話は遡るが、先月ひょんなことから大工道具があるけれど、もしよかったらいりませんかという話をいただき、見に行きました。普通の買い物ならば明確な値段がついていて、それが常識なのだという感覚からスタートするのだけれども、今回のは向こうの方も決して商売をするなど考えてもおられず、いざほしいものを手に入れるとき、値段をどうするのかということを自分で決めなければならなくなります。その際ほんとうにあらゆることを考えようとします。中古の電ノコの値段ってとか、これらの大工道具は急死されたその方の岳父の、いわば遺品でもあるしとか、ほんとうに何百円とかいうことを考えていたりと。果ては知りもしないのに国際情勢にまで頭が及んだりと。
もじゃもじゃ考えていると、支払いはお米にならないかと思いました。自分の中で、お米がお金になろうとしているのであります。つい二百年前までお米は通貨の基本単位であったではないかと思ったりもして。お金はないけれども、お米ならあるといばっている自分の発見であります。
今年は豊作で龍昌寺の村田住職の友人の方々や江崎満さんや福田さんやよろみ村の住人達の地縁血縁だけではさばききれない量のお米が倉庫にたたずんでおります。現金収入のためにお米を売り現金に換えるということの一行程を省いてお米で支払いそのものができないかと夢想いたします。と同時に物をつくって売るという行為には決して損得勘定だけではない、人と人との交流がぬぐいがたく存在していると実感いたします。 現金資本主義という大きな壁は以外に簡単な方法でローカルな問題としてリセットできるのではないかと考えてしまします。Think globaly Act localyであります。
ともあれ、通貨、貨幣、現金というのは今を生きる人間の本質にいやおうなく接近させられる重要なキーワードのような気がいたします。ただということとゼロ円とは違うのだそうですが、言葉は我々自身の思いをさしおいて、それほどまでに重責を担わされていくのかと思います。
自家製の増築。部材集まりあとは電ノコがあればと思ってました。高桑さん、ありがとうございました。 |
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