2017年11月29日

研究と表現のかい離について  

 
 マルクスがどうにもわからなかった研究対象は貨幣だが、貨幣自体の意味がわからなかったのではなく、(むしろそんなことは瑣末なことにすぎなかった)なぜ貨幣は貨幣なのかということであった。貨幣の理解不能性を実感したそのプロセスそのものが謎だった。 謎を謎たらしめるために表現した「資本論」自体の謎を通じて今度は私がその謎を続けることができる。問題は物そのものではなく物を物たらしめる関係性である。
 「私の弁証的方法は、ヘーゲルとまったく逆なのだ。ヘーゲルの場合思考の過程こそ、現実にあるものを作り出す中心であって、現実にあるものは、思考の過程とは何の関係もないのである。しかもヘーゲルは、思考の過程をイデ―という名前で独立した主体に変えてしうまうのである。逆に私の場合、イデーなるものは、人間の頭脳に移転され、移し替えられた物質的なものにほかならないのだ

内山禅師のテキストのイメージを再び引用したい。この二つの図ですべては氷解する。何もわからないということを!私たちはまだ見ぬ未来に向って幾度でも進化することが可能だ。

2015年1月17日

時禱詩集 リルケ

 リルケの詩を読んでいる。志村ふくみさんが書かれた本の中にコピペされているテキストである。志村さんのリルケの熱い思いから説明されてあるが、そのテキストはぜんぜん心に入ってこない。志村さんのせいではない。詩の中のことばが独り歩きしてわたしの心に届いている。だからこそ、志村さんの散文が完璧にリルケのことばを捉えてあればあるほど、志村さんの散文は私にとってじゃまなのである。

 私が読んでいるという感覚が消え去って、ことば自身が直接私の意識内で響いている。むこうからやってくる。感情などなんの防御にもならない。読後の感動はない。そこではわたしがリルケの思いを引き継いでいる。

言葉は言葉にすぎないんだね。不安が同時にある。でも天上を見上げるリルケの言葉は私にも届いているんだね。

2015年1月6日

詩経国風 雨月物語 

雨月物語の原文が心地よい。読書という行為は目を起点にしつつも五感を越えた感覚をもたらしてくれるという意味で私自身の意識を越えた世界を文字通り見せてくれる。その証拠に偶然図書館で借りていた詩経の本がするすると読めるような気にさせてくれる。もちろん漢文は中国語そのものの本テキストだからなにを表現したのかは皆目わからないが、詩という形態そのものの呪術性が直接わたしの心に入ってくるような気がしたのでした。そして散文としての白川氏の理解した世界が直接(表現という抽象行為を経ずして)わたしに入ってくるのです。中国、正確を期するならば漢字を使うネイティブを理解せずして、現在使用している日本語のネイティブにはなれないのだという心の奥底からわきあがる問いを共有するのです。
 読書とは共有であって、わたしとあなたの差異を抽象するためにあるのではないのだということがわかる。そして問題そのものがわたしの問いに呼応するかのように文字としてある不思議。
漢文の素養があれば、ものごころのつかないうちに強制的にたたき込まれていたならば作文能力はおろか、日常会話にいたるまで、あるいは心内語にいたるまで滞りなく行われていただろう。もっと言うなら、心の悩みと現在思われている現象が実は言語使用能力の問題であっただろう。
 でもこうなってしまったわたくしにとって小さな政治的意図であったとしても、文句を明治維新政府の役人に言ってもはじまらない。なにより極東アジアのかたすみの小さなわたくしの自閉と逡巡があればこそ、漢字文化の対象化が可能であったのだからとわたくしの心は言う。言語はみたり聞いたり書いたり読んだりしているうちにわたしの心を乗っ取りすらしたけれども、わたくしはわたくしに反乱することなしにわたくしに出会わないということを思わせてくれるものもやはり言語なのだ。言語はそれそのものを無化することによってわたくしをわたくしたらしめてくれる。わたくしがわたくしそのものであるためにはそのような無を耐えられるように訓練することを避けてはならないのだということを教えてくれる。詩とは言語そのものである。時間が経てば記録に過ぎない。そして記録を残すのは人間ではない。詩そのものがわたくしなのであるから。

2014年12月1日

摂心でした。

これまでならば、足がいたくないときはほとんど眠っているか、座禅に飽きていたし、足が痛いとなんとかして痛くならないか、あるいは痛くても我慢するか、考えることで時間はかなりゆっくりと進んでいた。今回の19時30分以降はこのどちらでもなかった。修行するといいうドラマも描けなかった。ほとんど足がつらかったのだが、我慢できる。ふと、菩提心がたりないのだということばが浮かぶとがまんできる程度の痛さが消えた。完全に消えたというのではない。次の今日最後のセッションでも通用する言葉だった。やったあと思った。

 家に帰り無方さんの勉強会のことをフェイスブックにのせるために、ついでに安泰寺のホームページを見ると蠟八摂心のことが書かれてあり、パラパラとページを見ているうちに、最前の喜びが消えた。

そして今、現在12月8日未明まで座り続けている人たちがたくさんいるのだと思うと、いてもたってもいられないが、とにかく今日は眠ろうと思う。

2014年4月13日

水と緑を守る市民連絡会は解散してません。

 資本主義は、もっぱら批判されるものとしてあるが、実はわれわれの意識の初期段階からわれわれとともにある。エコというコピーは商品に対するコピーでもあるが、われわれ自身がエコとともに生まれたのである。
 だから素直に正直に金を稼ごうとする行為そのものの欺瞞に気付けくことができない。自然破壊が開発とカテゴライズされ、無自覚に人を傷つけても、痛痒がなかったりする。昨年より、与呂見周辺の植林が刈り出されている。与呂見地区の人達が祖先の木を始末するために個別にやっているものと思っていたが、伐採業者がヒト山幾らで伐採権を買い取り、与呂見じゅうの植林を刈るらしい。たった十数本刈り出すために重機が長年培われてきた風景を一変させる。キャタピラー車が入りさへすればよいコンビニエンスな林道がである。彼らはコスト以上の金になるからと自然破壊などという自覚無く、ビジネスとして今日の流れ作業として重機や大型トラックをオペレートしているに違いない。この怒りを彼らにぶつけてもタコが自分の足を食うようなものだ。
 廃村、限界集落の問題に帰してはならない。心して、許してはならないものを許してはならないと思う。すこしづず、すこしずつ積み上げてきた文化がいとも簡単にくずれる。大型化、精密化し続ける機械システムは千年かかった表土を数秒でなくす。われわれの無自覚化が加速する。AIの言うことをもろ手をあげて信仰する。


こぼれ種(梅干しに不適とされた)だぜ。

2014年3月18日

猿山

  猿山を縦走。日本でも有数の雪割草(ここのは、キンポウゲ科のオオミスミソウ)は三部咲きでした。お父ちゃんがここ、皆月に居を定めておればここが故郷だった。
 コナラやケアキの原生林が大きく間隔をあけて生えている。春にシフトしたような太陽が差し込んでいてとても明るい。縦走の終盤、海が広がる。地球が丸い。
 ふもとに降りる。下界は草も、我先にと陣取り合戦のように込いっているなあと感心しました。帰りに実家に寄りお母ちゃんになぜ嫁としてあそこに行かなかったんだとせめる。それから嫁姑などの話になり、こちらからすれば当然の思いもあちらには全く通じないことがあるのだなあと、お母ちゃんの顔をしみじみ見た。
 どうにもならないのだなあと思っているとお父ちゃんが帰ってきて皆月の話になり、小説にもなっているし、人によってはあそこは犯罪者が隠れやすい地形で、ちょっと不気味なところがあるなあと、何気に言うと、父らしくもなくへらへらと笑いながら、昔、朝鮮人が海から上がってきたから、どこそこのなんとかさんが殺して、わしの家の田んぼに埋めたことがあってな、それからその田んぼはチョウセンタンボって言われるようになってな。「あんたもももしかしたら、殺人に手を貸したんと違うやろね」と尋ねると益々、父はへらへらとなって「違う違う」と茶化すのでありました。一瞬父がのっぺらぼうに見えたのでした。
 

2014年3月16日

民族。

 図書館で借りた『海女の島ー舳倉島』F・マライーニ を読む。舳倉島は輪島の沖合30キロぐらいのところにある天領です。(今もそうなんちゃうか)輪島市に属していて、渡り鳥の希少種も寄るらしくて、バードウオッチング愛好者や観光客も近年は多いと聞くが、ついこの前までは海士町(500年前ぐらいに九州から渡来したらしい)の人のものでした。別に脅すわけでもなく、法的規制に頼るでもなく、言うまでもなくあの島は彼ら彼女らのものだという印象はわたしだけではないと思う。
 海士町はほんの小さなブロックにあります。文字通り中上健次的な路地を彷彿とさせてくれます。身体能力に優れ(ローマ・メルボルンオリンピックにて銀メダリストを輩出)、小学生の時から煙草を吸ったりしていたり、中には秀才もいたが、総じて勉強嫌いで(高校を出た者がいじめられる)男も女も中学を卒業すれば海で飯を食べていく。私は気がついていなかったが、文字通り私のように輪島市民全員が彼ら彼女らを差別してきた。(わたしの印象に過ぎませんが、使用する方言が明らかに違うことや、マイノリティーであることは間違いのない事実です。)
 著者はイタリア人。最初はエスニックな裸の海女という興味からだったらしいが、いっしょに短期間寝食をともにして、もっと大きくておおらかなものを海女に感じ始める。本の口絵にウエットスーツが普及する前の薄い腰布以外は裸のままの肉感的写真が30枚近くあって、エロチックなものを感じてしまいました。しかし、それだけではないものも感じたのは確かなのです。その点は著者もうまく言い切れていないのですが、簡単に言葉にできるような人間の感覚では無いのでしょう。文化人類学的に日本人は元来裸に抵抗が無いというのは事実でしょうが、違うな。それだけじゃない。
 著者がふるさとのシチリアの同じような小さな漁村を思い出すが、欧米人の目に止まるエスニックというのは、海士町のように被差別と自覚しながらも、何世代にもわたって生きてきた強さ、きままに生きているように見えて、外部には知られることのない厳格なしきたりを素直に忠実に生きてきた歴史を持つもののことを言うのだろう。自分からエスニックを演じるナイーブな日本人の美しい日本なんぞ、とうの昔に見限られてるのだ。
 羽咋市出身の妻はその海士町の厳格なしきたりの中の厄払いの儀式に大勢の海士町の33才とともに参加したのでした。ナイーブな差別者たる私からすればおまえすげえなあーと、感心するより手がないのでした。海士町で風呂屋の姉ちゃんとして名前が知れ渡っているのです。ナイーブに中央に土下座する輪島市で海士町がどれだけ多様性への扉を担保してきたかは輪島市民全員で共有すべきものと強く私自身は思う。
 今私の住んでいる三井地区だって明らかに使用する方言が違う。とりわけ与呂見地区は三井町の南端、能都町と境界を接する地点にありなおさら輪島市市街地育ちの私からするとイントネーションや発語速度が違う。
 市街地育ちの私はお父ちゃんが門前町の秘境皆月出身で、お母ちゃんが能登島町出身のひ孫の間に生まれた、お父ちゃん側からは門前町系2世、(輪島市で3本指に入る商人だった)お母ちゃんのひいじいさんからみれば能登島町系4世なわけで、輪島市街はそうした2世、3世、4世のるつぼなわけです。市域全体の3パーセントの面積に全人口の半分近くが住む都市区域、文字通り都市なのです。
 輪島市という僻地は見方を変えれば農村地区を含めれば、その全体がマイノリティーの平和的共存という歴史を持つ、まれにみる多様性に満ちた場所なのだと私自身は強く思う。
                               
         blogger 2013年3月16日(最終更新:2021年11月22日)
 




2014年2月20日

4コマ漫画に1コマ加えると…。


  
人の錯覚していく様子がなまなましく描写されている。この5コマで十分だ。

 『人生料理の本  典座教訓にまなぶ』内山興正 第三刷(昭和47年12月8日)P44~45

2014年1月21日

風邪をひいております。

3日ほど、高熱にうなされておりました。母が熱にさいなまれているのを、これ長年の不義理の詫びと病院に連れていって以来です。母はどうやら新興宗教(母は宗教ではないと言い張る)の仲間がムリをして会合に来たのをうつされたらしい。
 頑丈な私の貧弱な精神にとって、大脳が熱に犯されていることは耐えがたい。軽いパニックのような状態になる。臭覚と味覚が全く失われていることがさらに、不安を増す。かろうじて感じられる事象が、かつての意味を失い、さらにはそれらの展開している未来も、ただただ不安であるというその一点を薄暗く素通りしていく。
 頻繁に測定する体温の上昇で、こりゃ病院にいくしかないと電話する。地元の病院には医者がいなかった。市立病院に電話すると、まず大丈夫ですかみたいな気持ちが伝わってきてほっとする。正常ではない今の方が、人の気持ちのあるなしに素直に反応している。インフルエンザをご心配ですか。でしたら、10時間ほどの潜在期間がありますのでと言われ、即座に今すぐに行かない方がいいとわかる。その旨を伝えると、その通りですが、もしもつらかったらいつでもおいでくださいと説明され、安心して市販薬を飲んで眠ると、断続的ながらも深く眠れた。飯を食うことと、眠ることはなんて大事なんだ。と思う。
 大脳が耐えているのだろうか。私という精神が耐えているのだろうか。もちろん私の大脳である。考えているのは私なのだろうか、私の大脳なのだろうか。熱にうなされているのはもちろん大脳の方であろう。大脳は自分自身に対することばを持っていないからわからない。なんてことを延々と考えていた。おそらくもって生まれたくせのようなものだろう。
 体温も戻り、頑丈な胃袋が飯をほしがっている今、ふりかえってみました。風の菌は細君にうつりました。零細家内企業のパートであるせいか、満足な休みもなく連日働く彼女が倒れている様をみるのはつらい。母の宗教なかまを一瞬うらむ。待てよ。問題はそんなところにはないぞ。仕事のないこの季節、彼女の稼ぎだけがたよりなのである。思えば、細君は私のような出口のない妄想にあけくれるひまもなく、子育てから家計までを心配しぬく日々をもう何年やっているであろうか。

追記。
 A・トインビーの「試練に立つ文明」がおそろしくすらすら読める。ギリシャローマさらにはラテン語による研究、オックスフォードなどなど目もくらむような知の傑作などという先入観を捨て、俺見たいなあほはあほとしてすなおに読めや、と思って読んだせいかしらん。そして衝撃的な一節に目が止まる。(事の真偽はこの際どうでもいい)

「われわれはおのれの文明のみが世界唯一の文明であると夢想する地方文明の、真にわらうにたえる奇想天外の二つの実例にぶつかるからであります。
 まるで夢のような話ですが夢ではなく、日本人は自分の国こそ「神国」であり、従って外敵の侵入には難攻不落であるということをほんとに信じていたのであります。(ところがその日本人自身は、不幸な北欧人種の「むくつけきアイヌ」こそいい迷惑で、この人種を追い払って、そう古い昔の話でもなく、まんまとそのあと釜にすわりこんでいるのです。)日本が「神国」?まさか。だって紀元1500年の日本は、シナではとうの昔、紀元前221年の始皇帝がシナをそこから救い出したところの、教化能力も何もない一個の無政府的な封建社会だったのです。シナがあれほど遠い昔に独力でやってのけたことを、日本はシナから拝借した世俗的文明と、またシナ人の御世話によって伝えられたインドの高等宗教の御馳走を1千年近くもまんまと満喫したのちでも、なおかつ成就することに失敗しているのであります。」

 長年タブー化してきたことが、かくもあっさりと言語化されていることに素直に驚いたのでした。つよがりだけど、わざと、あえて、成就させなかったから続いているんだ。お前自身が心配しているようにお前自身の西洋文明の方があぶないわい。まだもうろうが残っているな。おまえらは不安そのものだから言語も文明も強固だ。しかしこっちはどのようであれ、うたうんだ。不安のかけらもないんじゃ。まだもうろうとしているな。風邪のおかげで、休めるだろう?私の大脳よ!

2014年1月13日

正法眼蔵勉強会2日目。

  どのような日常的な行いも出来事ではあるが、この出来事という言葉は重要な意味を持たされはじめている。哲学のテキストに、あるいは呪術師の発話にと。重要なという意味は特殊なという意味に屈折し、特殊はいずれはユニークつまりは唯一に微分される。
 宗則さんは、昨日、入浴前の雑談にて、「正法眼蔵ほど、おもしろい話はありませんからね」と言われました。正法眼蔵に対するイメージに仏教ということと、お坊さんということがこびりついています。どのようなテキストとも共存できない特殊な世界の特殊な言葉が書かれてあると思う私にとっては、これをお話や小説、もしくは物語にできないというへんな自信があります。いわんやテキストなどと呼べるはずがないと。かたくなさは、この固さは仏教やお坊さん、法としての経典(こんな言葉は使いたくないのだが)を思考することを妨げていると思う。形而上学を入れると尚更、味わいにくくなる。
宗則禅師。
しかし、私は形而上学をまったくわかっていない。余裕を持ってわからないと豪語している。なぜわからないことがわかるんだと、自分の大脳に問いかけてみたくなる。何一つわかっていないということを知ることができるということはすごいんじゃないだろうか。わからないその人はなぜだか、とてもうれしそうに笑ってすらいる。こんな私でも、チベットがいまだ中国軍から侵略されていない時代のお坊さんの笑顔と、中国政府がポタラ宮殿を金ぴかに補修し、どこぞの僧院のお坊さんの迷いに満ちた素顔との差ははっきりとわかる。正法眼蔵にも、わからないということのままに生き、なおも法を求めるからこそ、ここまで法は伝承されてきたのだということが実際の禅師と弟子との逸話(これは物語ではなく、実際にあったこと)を通じて記されてある。
 私が得度した時、習わしとして、釈迦牟尼仏を起点にして、歴代の禅師の系図を筆で書かされました。ただでさへ、出家してお坊さんになるということにド緊張していた私の驚きを察してください。思わず、村田住職に言いました。「つながっていたんですね」「文字のない時代なのに?」私は系図の最後に村田住職を書きました。私の持っている手がきの系図の中の和樹さんは、私が弟子をとらない限り、私の手がきの系図で終わってしまうことを知りました。(システム的にです)
 やがて呪術的なムードは去りました。私は呪術のことなどまったくわかりません。岩波文庫の正法眼蔵第一巻末尾の法系図は幹にある大師しか記載されていないのですが、枝葉を入れると厖大な法伝承者がおられます。それら全部の禅師が記載されたものがあるのだそうです。村田住職の正式な弟子は現在4人いますが、この全員が弟子を持たないと村田住職の名前が書かれた系図は4枚しかないということになります。

 あきらかに、昨日の記事はわたくしの構築した物語にすぎません。確かに法は語られましたが、さて法はテキスト化されていますでしょうか?今日の輪講で、お坊さんということが話題に上りました。「私はお坊さんじゃありませんから」と宗則さんが言われたのは世間でいうところの葬式などの儀式をとりあつかうことを主たる行いとするお坊さんではないという意味なのでしょうが、私はここでも、そうは言っても、歴代の祖師のごとく、ブッディストであり、ほんとうのお坊さんなのでしょうとつぶやくのでありました。私が私になりきった時、私を私と名指す差異はどこにもないのですから、私はもはや、なにものでもありませんとおっしゃっているのにもかかわらず。
 何度でもわからないんだあと顔に手をあて、その舌のねもかわかないうちに、がんばっておれもわからないをわかるんだと傲岸な顔をしているのでありました。しかし、私は私の顔を私の視線でもって見ることができないのでした。そのことを知っているのでした。

 宗則さんの提唱

 多処添些子(たしょてんしやす) 多い所にちょっと足す=大悟

 少処添些子(しょうしょてんしやす)少ない所にちょっと減らす=劫迷


道元禅師は、言葉を二重に使う、同じ言葉を別なところで違う意味で使うのだそうです。「気楽に読み物のようにして読書したいのですが、古文の知識などを補いつつ解説しているうまい参考書はありませんか」と尋ねると、「ありません」「水野先生の脚注で十分です」村田住職は、んなもんあるわけがないみたいな顔をされました。ですよね、「道元禅師の表現なんすもんね」とたかをくくったのでありました。「宗則さんは、それこそ、40年間、何度も何度も自分の頭で読んできたんですから」「わしなんか、3行で終わっちまうところを、道元さんはこんなに厖大な文章を残しておるんやぞ」



それにしても、わがメモのひらがなのなんと多いことか。文字じたいを知らないのでありました。

特記 宗則さん、村田住職ともに、「正法眼蔵は道元禅師の表現なんですよね」に対して「そうです」    とおっしゃいました。


2017年8月19日 訂正
村田和樹の正式の弟子は4人ではありません。ご子息もお弟子さんでした。遼雲さんが、きっと法をつぐのではないでしょうか。あるいはもうついでいるのではないでしょうか。

2014年1月12日

正法眼蔵勉強会1日目。


左 櫛谷宗則。 右 村田和樹。
今年はじめての更新です。今日は櫛谷宗則さんを招いての勉強会でした。集ったのは9人。こじんまりと、降雪の中提唱の声が響きました。正法眼蔵「現成公案」。ここに書かれてあることは仏の目から書かれてあるので、凡夫にはわかりません。と言われる。ニュアンスは上からではありません。あくまでも、ただの事実として説明をされました。何度も何度も読み下してきたセンテンスを追うと、まあこんなものかとわかったような気になっています。しかし、皆と輪講するうちに、わかるということは、仏法の話の場合、まるでわかっていない、もしくは、本旨から遠ざかるということがテーマとなって、我が身にふりかかってきました。「おれだけがわかっていなかったのか!」坐が暗くなっていきました。すでに積雪に囲まれて消音されていたのですが、さらに、どんどん静かになっていきました。むろん、私の見える風景がです。
 まさやさんが私に向ってストレートに言われます。「宗則さんを坊主であるとか、そういう風に見ることは違います。あくまでも、ぼくたちと同じなんです。仏法の話における言葉は、にしかわさんが意味づける言葉とは違うんです。むしろ言葉の出る瞬間、つまりは言葉そのものの前後における時間を見るということにおいて、ぼくたちと同じなんです」(意訳)
 村田住職も言われます。「つくづく、仏法の話をする場が無いんだなあと思う」
あらかじめ、構築された私が身聞きし、意味づけする場に、宗則さんの言葉をすっぽりと当てはめていては、未来永劫、宗則さんの言葉は入ってこないのだ。
 慈行さんが隣の席で言います。「言葉ってのは、ほんとうに、引っかかり安いものなんだ」
2年ごとに訪れる宗則さんの言葉がどんどん磨かれていくと、皆は言います。もう何度目でしょうか。あいかわらずの私に宗則さんは、またまた、同じ質問をされました。「なぜ小説を書くんですか」私はなんにもわかっていないんですと言いたいのに、そのことにしっくりする言葉が私の中にまるでない。龍昌寺の庫裏は、言葉が力を持つ。その力の前に、さらっとした読書などで得た私のボキャブラリーのおもちゃ箱の中を幼稚園児のようにしてがちゃがちゃと手をつっこんでも、何もない。とりわけ、私を楽しませるものが皆無である。
 あれこれと思い悩む思いよりも、生命=いのち、今現在、この場所でも事実としてあるこのこれの方が、はるかに古い。いやはるかでなくてもいい。思いが生命のことをとやかく言うことの無力さはふつうに考えてもわかるはずなのに、驚くことはおろか、聞く耳すらないのである。積み重なってあるわけではなく、その都度、その都度なまなましい。
 すかさず、まさやさんは言う。「ぼくがぼくのなまなましさに追いつけないんですよ」ムリなんですよ。だからこそなまなましいんですよ。
 宗則さんの提唱。

「諸法の仏法なる時節」この一語で驚いていいんです。続くありありあり、断絶です。そしてなしなしなし、続いているんです。」庫裏に不怠(ふたい)という言葉が輝いておりました。これは怠けるなというよりも、怠けていられないということです。宗則さんが話すと、道元禅師もお釈迦様も身近です。おじいちゃんの何代か前という感じです。まるで言葉が宗則さんの身体を借りて降りてくるみたいでした。

追記。ここで書かれた言葉の時系列は私が編集したもので、各人の話した内容もかなり意訳いたしております。ですから、各人の意図とはまるで違う可能性が高いことをお断りしておきます。

道元禅師の歌が紹介されました。私としては以外でしたが、かなり多作であったとのこと。村田住職によれば、吉本隆明は3流と評価されているとのことです。

 風もつながぬ
 
 すておふね

 月こそやは(夜半)の

 さかりなりけり

2013年12月15日

原発も遺伝子組み換えもTPPも、賛成か反対かで話しはじめるのは止めようじゃないか。

 どの国の良識も決して中立ではない。中立をつきつめるとよくわからなくなる。事実と真実の哲学的探究という側面もある。そのままをそのままと簡単に言わせない傾向を感じる。福島原発から大量の放射性物質が環境に出てきて以来のテレビや新聞など、報道機関のあやしい動きを見れば私のような社会不適応者の鬱を吹き飛ばしてくれるような人類滅亡物語が感じられる。戦争が始まると精神障害者が激減するという。
 地球がどんどん小さくなっていく。宇宙の果ても見えたかのように、整理整頓された形で、自分の人生もそのような傾向におさまっていく。自分とはいったい何なんだろう、とでも考えるか。問いではなく、ある物語にとっての必然的帰結。終わらないというエンディングを迎え続けるわけだ。やはり自分自身を見すぎると何にも見えなくなってしまう。
 人が人になってから、問題が生じたのではなく、問題そのものが人であるとすれば、全てがつながる。私という事実をそのまま知ることができない者としてこの私は生まれたに違いない。ただこれらは私の脳内でおこなわれていたのだろう。私が私になった瞬間を思うと意識が遠のく。
 順番が違うじゃないか。瞬間瞬間の私の連続をつないでいるのは物語である。
 みたいなことを思いはじめて、まだ4,5年しか経っていないのだけれども。
 今までに一度たりとも途切れていないということもセットで考えるべきだったと思う。何が何と連続しているのかは、全くわかりません。(政治や経済の始まりは、体制を担っている人たちが失敗の無意識的隠蔽という形で間接的に、自らの手で見せ始めているじゃないか?そんなもん、政治でも経済でもなんでもないけど)
 
 こんな風に考えると、なんだかほっとする。
味噌うまいんだよなあ。手前味噌だけど。麹づくり今年もはじまります。

2013年12月10日

第6回輪島中学校統合準備委員会。

 6月以来開かれていなかった輪島中学校の統合準備委員会があった。この間、三井中学校に教育委員会がいきなり訪れてスクールバスの要望は受け入れず、既存の民間路線バスを利用すると通告してくる。(この言い方は、きついかもしれんが、あえて教育委員会の仕事ぶりを讃えたつもり)
統合反対の要望と同様に、なんだよ最初から決まっていたのかよという感じである。
 ちいさな会議室に30人ほどがいて、そのうち、保護者は10人もいただろうか。あとは学校の先生に市役所の人のみであった。半年ぶりの開催にもかかわらず、用意されたレジュメは議事進行以外はまったくの白紙。議事にて制服や校歌、通学などが報告されるも、真新しいことはなく、校歌は依頼した作詞者の作品があまりにも幼稚で50年にたえる綿密な準備過程にそぐわず、作曲者の天沼氏に作詞も依頼している段階なのだそうだ。
 小さな会議室には統合決定後すみやかに決定した男女の制服と体操服(コムサデモード)が並ぶ。最後のあいさつにて、某中学校校長先生が、散発的に実施された各小中学校の交流にて、大人と違って子供たちはオープンで適応力があるから安心しましょうみたいな、まさに大人の無関心ぶりを象徴するような意見を述べて会は参会する。所用時間1時間、予定どおり。
 唯一、三井小学校の父兄であり、統合問題をまさに問題としてひきあげてくれた萩野さんが、質問時間にて、この統合委員会はいったい統合問題にどのように関与しているのか、その意味がわからないと、やんわりとやさしく、かつ理論的に言われた。彼がいなかったら、形式だけの会議が何回かやられただけで、新中学校は稼働していたことだろう。
 自分のこととして、自分を勘定からはずして考えるような市民が不在の状態で民主主義的手法だけを進めてしまうと、議論する場所もなく、新しい施策が発表された段階ですべてが決められているということになる。そして施策に対して何も言わないということそのものが、即推進への力となっていく。「決まったもんを、ごちゃごちゃ言うてもね」「なかよおせんかまああ」。とまるで鎌倉時代のまんまのような状態であることが露呈される。
 これらの批判は、私自身に向けられている。誰かが言うとったけど、日本は近代の体をなしていないというのはほんとうだ。

2013年12月8日

ちょっと沈んでおりました。

 参議院での特定秘密保護法案の採決より、鬱に沈んでおります。原因はさまざまに思いつきます。政権が国民の懸念を知りながら法案の成立そのもののために強行採決したこと、長男や次男が徴兵されるような事態に動き出したこと。この両極端の間で法案の具体的中身への思いが介在しております。同時に私個人は、この法案が守ろうとする秘密や秘密を漏洩しようとする者に抵触するほどの意志を持つほどの生活を送っているだろうかということも、もう秘密にはできません。「おまえ、関係ないだろ」と言われているような気がしてならないのです。
 現在の日本国における議員内閣制による行政統治は、システムとして私を含む20才以上の全国民が選んだものということになっている。近いようで、遠い、遠いようで、近い、距離感が実測でも想像でもよくわからない。単なる勉強不足なのかと、今頃になって特定秘密保護法案の修正法案を読んでみても、以外にわかりやすい文章だと思うが、日本国が何をさすのかがそもそもわからない。安倍内閣総理大臣の脳は日本国をどのように認識しているのであろうか。
 あの人の国会答弁をYouTubeにてちらちらみていると、さんざん美しい日本とか、世界の平和とかを連発するのに、具体的に日本国憲法の条文を理解されているかみたいな、個人的意見を問われると必ず、私は総理大臣としてここに座っているのですから、いちいち憲法を論じる立場にはありませんと言う場合が多いのは、ずるいを越えてとんでもない勘違い、あるいはとんでもない無思考を正直に言っちゃっているようで、傘下の大臣たちもそのような人間が多いのではないかと心配になってしまうのです。ようするに責任をまったく意識していない。
 民主主義はいかなる自動的なシステムをも排除するための超主観的な人間の意志がないと成立しないのではないか。私はこう思うがないと、簡単に暴走する多数決による意志決定システムになってしまうのではないか。そのためにたくさんの失敗を重ねつつ、血を流しながら修正してきたシステムなのではないのか。
 そこから抽象された言葉として国、平和などの美しい言葉がある。ちょっと元気に私がなったのは、言葉そのものが放つ美しさであって、鬱をもたらしたものは、システムとしての国を美しく輝かせる責任を誰か突出した頭脳がやってくれるからと責任逃れをしてきたことにやっと気づいた事そのものである。
 政治や経済、世界の歴史を自分のこととして、しっかりと勉強しようという気持ちをかりたててくれた今回の特定秘密保護法案審議の課程に感謝したい。

2013年12月6日

特定秘密保護法案成立。

  昨日、今日と日雇いに行ってきました。よろみ村で呆けて暮していたので、久しぶりに行った金沢は新しく舗装された片側3車線が多く、巨大なモノ売りの店も増え続けているようで、落葉が吹きすさぶ奥能登から来た者にとっては、そこにおるだけで緊張しました。アベノミクス効果は地方にようやくやってきたようです。日雇い先の所長さんも、急激に物が動き出してたいへんなんだそうです。仕事から営業所に帰ると、一時金と書かれたボーナスの明細書が入った封筒を目の前にして社員の方方はうれしそうです。
 ネットでは、特定秘密保護法案の国会採決をめぐって、官僚と経団連のシナリオでただ言われた通りのことを演じる政権与党という陰謀論がクローズアップされています。私自身も、2流私大を出たトリプルA(麻生、甘利、安倍)がわずか1年のうちに、これだけたくさんの仕事をこなせるわけがないと思っていましたから、どのような政策も陰謀論から帰納すれば得心がいくことばかりです。しかし東大法学部はいったいどうしたんだ?何をしているんだ?
 気のせいか、昨日(12月5日)委員会採決された瞬間にネットに沈黙が生まれてきているような気がします。勢いが無いのです。法案に反対する学者さんが言っておりました。この法律は不備でおそまつなほど、効果絶大なのである。人々はますます疑心暗鬼になる。これほど、費用をかけずに国民に政権の力をおよぼせる法律はないのである。そして、とりあえず、景気も何気によさそうだし、まあ安倍も悪いやつじゃないんだから、まあいいんじゃないのおが、合わさって、(テレビでは深夜に保護法案審議を直接担当している委員長(民主党)が何の落ち度もないのに罷免されたのに、あいかわらず、お笑い芸人がトークのために身を粉にしている)システムさへ、ちゃんと稼働しているんなら少々のことはいいじゃんか、みたいな流れに、国民は流れ始めたのではないだろうか。
 一昔まえ、つい10年ほどまえ、小泉いぜんの、政治家たちの愚図がなつかしい。今となっては、アメリカの後ろ盾なしにはものも言えないことを自覚しながらもとぼけ続けていた老獪さがなつかしい。明治維新を経ているにもかかわらず、鎖国的精神を続けようとしていた日本人が懐かしい。
私のように、そのような立派なおじいしゃん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさん、おにいさん、おねえさんの元で安心して愚図りまくってきた人間にとって、こんなにも、急激な欧米化は困るんです。
 それにしても、なんであべはあんなにうれしそうなんだろう?

おわび。
 おじいしゃんとなっておりますが、響きがいいのでそのままとしました。

修正。

 19時31分現在、参議院本会議ではまだ採決がおこなわれていませんでした。

2013年12月2日

何をかっこつけてんだよ。おっさん。

 池田信夫とかいう人のブログ記事をフェイスブック上で見る。特定秘密保護法案に賛成の記事である。今回の法案は秘密を守らなければならない人に対する法律であり、巷で大騒ぎされているような普通の市民を弾圧するような法律ではないんだということを、朝日新聞批判をベースに論述されてある。国家をどのようなものとして見るかによって、善悪という主観的な問題に還元するかのような議論をしたくないし、法案の細部の運用を予測できるほどの感覚も薄いくせに、特定秘密保護法案の是非を言うなと言われるかもしれないけれども。
 国家の提出した法案を賛成するということと、反対するということは対等に測られる市民の行為なのだろうか。法治国家における立法府が賛成している法案をそのまま賛成する側が目的達成(法案の成立)のために費やす努力と反対する側の目的達成(廃案)までの労力は同じ基準で測られるだろうか。法案提出の時点でそれを賛成するということは、すでに有利なんではないだろうかということを言いたかったのですが。同様にちょっとそれおかしいんじゃないかなあああと思っただけで反対なんだと言われる者が反対と意思表示する時において、すでにハンディを背負っているのではないかということが言いたかったのです。

追記20131209 
 若者はすでに知っている。12月6日参議院本会議で法案が採決された後、催された会合で女子大生が発言しています。
「賛成か反対の意見を強いるのではない。でも、傍観して自分の意見を言わないことは中立とは言えず、権力に力を与え続ける暴力行為だ」と呼びかけた。
               
 
 ずるいかもしれないけれども、私は構造のことを言いたいのです。大勢の人が反対もしくは懸念を持っている法案に対して、賛成することのカタルシスなんてないんですかね?私もイニシアティブを持った国家の行動に対して異議を唱えるというカタルシスがないこともないですが、この法案に対しては、恣意的な運用を戒める歯止めがシステムとして条文に入れられていないことからみて、廃案にすべきだと思います。賛成する人はようするに、なんらかの恣意的集団で安住されている方なのだろうと思います。いいじゃん、ボロボロとマスコミにしゃべっちゃう大臣なんて。とろい国でいいじゃんか。そんなことで他国から攻撃されたらどうするんだと言うが、戦争は相手の状況を斟酌して行われるものではない。攻撃される時は攻撃されるのである。(違うかな?)Cool Japanの中には、そのようトロさも入っていると思うんだが。

2013年12月1日

責任者出てこい。(人生幸朗・生恵幸子)

 テレビで、バングラディッシュの縫製工場の話をしていた。国のメイン基幹産業である。設計より建て増して5階建てから8階建てに作られたビルが、朝一番に2000台のミシンが一斉に始動した途端に倒壊して従業員が1000人以上死んだのだそうである。(黙祷)。
 バングラディッシュ国内の財界団体(カルテルだと思う)の副会長(実働するポジション)を労働者(従業員でもある)から見れば、悪人に見えるし、副会長からすれば商品を発注する欧米の資本家たちが悪人である。労働者は生活ができないから給料を上げろと言うし、資本家からすれば、欧米の資本家たちの工賃が下がっているのに給料を上げろという労働者は会社を破壊しようとする怪物に見える。立場を変えて見れば、どこにも加害者がいないのであった。
 従業員を労働者に、経営者を資本家に単純に言いかえたせいでもある。カテゴライズされた物語を、いろいろと組み合わせれば、今では私のようにちょっと経済学をかじっただけの者でも容易に世界を分析することができる。
 日本の温厚そうな経営者が登場して、物語ではなく、一つの企業行動が紹介されると、再び資本家は経営者に戻り、労働者は従業員に戻された。この一企業人の温厚そうに見える人柄による。もちろん私の主観によって世界を自分に近づける。ここで問題にしたのは、万国共通のカテゴライズされた用語によって再構成する世界と私の主観によって意思を吹き込まれた人間同士の関係性によって再構成される世界との微妙なズレである。もちろん、主観もすでにカテゴライズされていることは間違いない。あーややこしい。
 家計であれ、企業であれ、自分が出す金銭よりも自分のところに入ってくるそれの方が多くないと明日はない。だから必死である。これはわかる。さて、公会計はだいぶん話が違う。赤字になってもつぶれない。アメリカでつぶれた都市はたくさんあるが、財政危機の国もあるがつぶれない。つぶれようがない団体が確かにあるのは、ものすごく主観的な理由がありそうだ。
 バングラディッシュの国情に戻る。自分が支払う金銭をもっとも少なくできたかに見える欧米の資本家が悪の元締めのように感じられる。番組では顔も声も出さないから尚更イメージが暗く、怖い。ほんとうにそうか。今はやりの陰謀論で言えば、ユダヤの商人に結び付くのだろうが、限られた人間が掌握しているのは金銭であって金銭的価値そのものではない。そして金銭はどのようなものにも価値を見出すことができるから、端折って言えば、金銭は金銭的価値の奴隷なのである。
 金銭と金銭的価値が限りなく相同であると勘違いしている日本は、財政学的に言えば破産団体である。国の借金を国内でまかなっているから大丈夫だと思っている国民の主観によって成立してきたし、これからも成立していくだろう。自国の利益を企業の利益と同じであると思っているのは、はたして議院内閣制により誕生した内閣総理大臣だけであろうか。家計と企業会計と公会計をまったく同じものとみなしている国民性に問題がないのであろうか。
 精神的な側面も持っていた資本主義がシステムとして稼働するということは、ある種の破たんを意味するのではないだろうか。資本主義を現実的に容認すればするほど、資本主義の抽象性が増している。金銭的価値と金銭を同一視し、入った金銭から出した金銭を差し引いた利益が善であるかのような短絡を許しているのはわれわれ一人一人ではないだろうか。私は価値を生み出す責任者のうちの一人だったのである。バングラディッシュのみならず、世界のどこを探しても悪の元締めは出てこないのである。探そうとすればなおのこと、絶対に敵は見えなくなるのである。資本家を倒す労働者という図式よりも、貴族(働かなくてもいい)と民(働かなければならない)という図式の方が今でもバリバリの現役なのです。だれしもが働かなくてもいい方を志向していては、さらにさらに世界の抽象性は増すばかりなのである。文句を言える対象が消え果てて、あたかも責任を背負っているかのような生贄を探すばかりになってしまうのである。
 金銭的労働と金銭的労働でないものをひとくくりにしていますが…。

追記

 暗い青春時代、人生幸朗・生恵幸子がテレビに出てきただけで、死ぬほど笑っておりました。「責任者出てこい」とくだらないことにだけ難癖をつけるのです。

2013年11月30日

とにかく座りなさい。


 座禅体験の行事が終わりました。何がわからないのかがわからないという状態で、はたして、道元禅師に対する懐疑が深まるなどということがありえようか。疑いなど持てようか。いったい何を伝承してきたのかがわかっていないものが何を言っても届かない。

 村田住職が具体的に座禅の方法を教えてから、皆がチーンの合図で座りはじめました。静かで厳かな空間に一瞬にしてなりました。自動的な感じが、伝統っちゅうものを感じさせてくれます。疑いなど感じているひまもありません。けっこう座れるじゃん。そして身体の痛みがそのようなドラマを吹き飛ばしてくれます。はよ終わらんかな。

 座禅を終えて、庫裏にて、談笑しました。村田住職は話すことを入念に準備されていました。メモを見ながら、子供たちやご父兄の反応を見ながら自分のご先祖さまに対してのありがとうとすんませんをそのままあらわしているのが合掌であり、そのような単純な事実を常に忘れていること、何がわからないのかがわからないのだという状態を自動的に感じざるを得ない行いとして座禅などがあるということを知らせてくれました。村田住職はちゃんと衣と袈裟を装着されておられました。

あいかわらず、自分を中心にしてしかこの場を見ない私は、勝手に、三井の地元からやって来られた方々が思うのは、この龍昌寺という寺がわざわざ、金沢から輪島にやってきて、この寺の住職はいったい何をどのように、またなぜ、やっているのかを知りたいと思うんですよとやってしまった。「みなに自己紹介をという前に和樹さん自身の紹介をしてからにしませんか」と。師は「そんなもん、あんまり、どうでもいいじゃないかな」と一蹴されました。

 しかし、子供たちのための行事であることをすっかり忘れておりました。緊張してみなをもてなさないとと思っていたのですが。朝のお勤めに行くと、本堂には座布団がしかれており、庫裏にはストーブのための薪が並んでいました。そして、お勤めの後に和樹さんが「雪が降っとってみんな大変やね」と言いました。私はなんと言ったと思いますか。「みんな三井の人ですから雪には慣れています」です。何の準備もしていないで、自分の準備しかしていない。30分前にIさん母子がよろみ村までやってきました。ほーれ、皆さん勝手にやってくるではないか。さても、Iさんは「寺への入山口と県道からこっちに入ってくるところに人が立っていたほうがいいかもしれませんねえ」そうか、とあわてて、車で県道と市道の交差点にて皆さんを待つ。お父さんが同行できないKさんのご子息を助手席に乗せて本堂に帰る。車中Kくんは理路整然と寺ではみなさんどのようにされているんですか」とあたりまえのことを尋ねられる。ぼけーっと本を読んだりしているだけだとも言えず、考えているふりをしながら、自分でのわけのわからないことをしゃべっている。その醜い姿だけは見せてくれる。何でも素直に聞いてくれるから、Kくんの応対は、ますます私の醜さを浮き彫りにしてくれる。

 
自分のことをも、もてなせない者に他人をもてなせるわけがない。他人をそのまま感じることができない。なんとなく、で行事を終わらせて散会となる。Kくんのお父さんはまだ来ないので二人して庫裏のストーブの前で話す。「さっきの寺の人は今どこにいるんですか?」さっきの寺の人というのはおそらく村田住職のことだろうと思い、さっき座った場所のその奥にふつうに暮らしているよ。場所、ふつう、暮らす自分の話している言葉の正確性を問うているつもりだったが、そんなことをくりかえしているオトナの言葉はひどくわけのわからないものと感じることだろうと思う。何を伝えたいのかが全てじゃないか。一人で問うしかないんだ。この寂しさの真っ暗闇まで行かんといかんのだ。そして窓が開かれるようにして、他人の存在があるのではないか。まだそこまで行ったことがないから、ゼンゼン想像でしかないのだが。
右 村田住職(ブログへ)  左 三井小学校の児童たち。
「12月8日はね、お釈迦さまが悟りを開いた日なんだけれども、そのことを追体験するために、12月1日から8日までずーっと座禅しっぱなしのお坊さんが日本国内に1000人ぐらいはいると思うよ」と知ったかぶりをするとKくん、驚いてくれた。「そんなこと可能なんですか?」「やったことがないからわからないけど、可能なんだよ」


 昨夜、晩御飯の時に、末娘がうれしそうに、「死後の世界ってあるげんよ」と言った時に、これだけは大切だから言っておかないとと思って、「戻ってきて死後の世界を説明しているだけで、その人は結局、まだ死んでいなかったのだから」と言ったとたんに末娘が烈火のごとく怒りました。「うすうすそんなことはわかっていたけれども、こんな時に自分の考えを押し付けているあんたは空気が読めないKYやけーわい」今度は私がキレて「どんな空気や、一生空気を読みながら生きていくんかい」と論点を完全にずらしてしまいました。


落ち着いて考えてみると、私はまだ死んでいないから、死後の世界があるかどうかわからないということを言いたかったんだな。と思いました。でもやはり死後の世界なんてないんだあと断定しているとしか思えない口調だったのだ。それを末娘は怒ったのだった。



老いるということの素晴らしさについて

岡林信康がテレビに出ておった。67才。1971年の日比谷野音でのコンサートを最後に姿をファンの前から消す。当時は音楽を自分の道具だと思っていたが、今は音楽の道具として自分がある。と言っている。このような逆転は自分にはなかなか訪れない。一生このままかもしれない。

2013年11月29日

参禅体験。

JUSAI 123 : おじさんが、まず体験したいよ。
薪は拾ってきてタダなんだが、ストーブはスウェーデン製で21万円。


 明日は、三井小学校5,6年生の学年行事としての坐禅体験が、よろみ村の龍昌寺にて行われます。全員が来れば、児童が15人、ご父兄を加えて20数名と思われます。これまで龍昌寺には全国津々浦々からご客人が見えておられましたが、地元の輪島市から、このように大人数の方が来られるのはそうなかったことと思います。しかも、よろみ村という理想郷へやってくるのではなく、坐禅という仏教の中では、だれにでも知られている行を体験するために大人への入り口に立つ子供たちがおしかけるのです。

 村田住職はいつも、こうした参禅体験の際、自らの側からだけ一方的に話すことのできない方ですので、今回も車座になって子供たちやご父兄との双方向の語らいをされることでしょう。できれば、私としては、一方的に村田住職のお話を聞いてみたい気がしております。ご父兄も、まさか自分が坐禅のことや仏教のことを話すなんて思ってもいないような気がします。

 私もそうですが、禅僧に対しては、その悟った状態を私たちにもわかるように表現してほしいと、みなさん思ってらっしゃるのではないでしょうか。違うかな。もしかしたら、明日30分ほど坐って悟ってしまうやつが出ないとも言えないし、なんともわかりやすすぎる形ゆえに、いかようにも解釈させてくれる自由さが、結局、最後の最後に究極の不自由さをもたらす可能性を持っていると、坐禅に対して思考しているわけです。とにかく、坐れと言う道元禅師に対する懐疑が年々、深くなっていく私です。

 輪島からほとんど出たことのない私が、暮しているよろみ村をどこにも比較するところのない、新しい村と思いこもうとしてきたのですが、実は生まれ育ったところ、すなわち、ものごころがついたところ、すなわち、自意識が生まれる前に身体がすでに生まれていたところから一歩も出ていないコンプレックスの裏返しが、そのようなユートピア観を生んだのは間違いないようです。坐禅や仏教とは、そのような屈折の中でイメージを私に与えてくれていたのです。それらの解釈を洗練させることがいつしか、仏の教えと流れを一つにすると思っているのです。今でも!。そして、どのような思考も、つまりはあらゆる言葉を費やしても、必ず失敗するとわかっていても、直ちに止められないのが私なのです。

 私は私をすら代表できない

 私は力をこめるほど私が私から遠ざかっていく

 あからさまに、つねにそこにおるではないか

 私が。