2011年6月21日

そろそろ雨が降ってほしい


田んぼの水廻りをしていると、だんだん大きくなっていく稲が大きく風にゆれているのを目にします。自分が責任を持っている田んぼと他の田んぼでは見え方というか、見方そのものが違います。自分の手塩にかけた田んぼは自分の持ち物のようでいろいろな言い訳を考えながら今現在の状態が最善であると思いたいのだが、同時にこうではなかったといろいろな後悔も去来します。いわば田んぼの今現在の有様、状態あたかも自分の心の今現在のありようも示すような気もしてなんだか恥ずかしいという気持ちもいっぱいです。
おそらく田の農民はそのような見方をしていないでしょうし、見ることすらしていないかもしれません。まあ自意識過剰の受け皿として稲が風に揺れる姿があるわけです。畦の水漏れを見つけては喜び、明確に漏れた場所がわからず水が田んぼにたまらない、たまらないと憂いたり、用水におおきな排水口のような水漏れを見逃しておきながら用水が細くてこのままでは稲が田んぼで干上がってしまうと大騒ぎしたりととても忙しい日々が続いています。
いわゆるスタンダードな方法の田んぼではもうすでに水を切り、少し田んぼを干し始めています。われわれの田んぼは中干しどころか水をできるだけ深くためて栽培しますので水の必要性は益々高く、水の入っていない田んぼのすぐ横でダバダバと用水の入り口を開けて田んぼに水をジャブジャブと入れています。
皮肉ではなくてほんとうに親切な与呂見地区のおじいさんやおばあさんは私の顔を見るたびに「もう水はいらんげぞ」と大きな声でどなります。与呂見地区の家々の田んぼは約17枚ほどありますが、各所にそんな声が待ち構えていて気の小さい私は少しオドオドしながら水廻りをしています。米ぬかをいれて深水で稲を育てる方法に確信を持っているつもりですが、心はほんとうにこの方法が最善であるのかと問うてきます。
もちろんこれらの対話はまったく静かに自分の心のうちになされているだけですので、自分自身だけが感じる喧騒は外には漏れていないのだと思っていますが、稲には伝わっているかもしれない、田んぼの水まわりをしているもののブレはただちに稲の生育に影響を与えるのではないかと疑っています。水位の低下が激しい田んぼの水漏れの原因をつぶした瞬間に稲は風に揺れてその安堵とその喜びを即座に表現しているように思われます。
どうにも客観的にというか、正確に田んぼで何が起こっているのかがわかりません。田んぼを思う自分の心の動きと稲の実際の生長を混同してしまったり、必要以上にドラマ化してしまうのは大げさな性格のせいではありましょうが。
ただ一つ感じるのは時代というか政治制度や文化が少々変わっても田んぼの基本的性格は不動であるということです。水を必要とすること。そのためにこれからの農民もがんばるのだろうということです。治水の性質上、個人的な単独行動は制限されムラゼンタイという発想は消えることがないでしょう。そこにどんな名前の政治制度や経済制度が被せられてもです。そのような田んぼの自立性に私自身呪術的な性質を被せることなく田んぼの過去や将来を考えられたらいいなあと切に願っています。


2011/6/11 sakata yonmaida

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