2012年5月4日

正法眼蔵勉強会 1日目。

提唱前。がんばって、写真を撮りました。

提唱中。龍昌寺 住職 村田和樹老師。カメラ越しながらじーっと見させていただきました。

横浜の加島牧史さんの呼びかけではじまった正法眼蔵(道元禅師作)の勉強会10回を数えたそうです。3日連続にて先講の方のそれぞれのお話と龍昌寺住職の村田和樹老師による提唱が続きます。村田住職の場合、正法眼蔵をテキストとして使われずに、どちらかというと一見、現在の心象風景を元にした自分の思いを語られますし、各先講のお話もこれといった中心的カテゴリーが皆無ですので初日はちょっと整理しきれなずにただその場にいるという感じの参加者が多いことと思います。
それでも、ご縁というのか、集った方々に共通の何かがあるのか、次第に微かなテーマみたいなものが浮かび上がってくるように思います。村田住職の場合、講義者からの一方通行を嫌われるので、最後に参加者各人の感想などを喋らせますから一層、複雑さを増すかのように思われますが、各人が全く違うこと、いわば自分のことを話すゆえに、その真の多様性はかえって場そのもの、そして今この時そのものがもともと一つであるという基本的な次元に立ち返らせてくれるように思います。口で言うほど人類は多様ではありえないのだけれども、本来一つの場所と時間を完全に共有するがゆえに、各人一人一人はそれぞれ違ってあるより他に手立てがなくなるように思うのですが。
次第に何を言いたいのかがぼやけてしまいます。初日の先講はH大学教授のinazawaさんの日本仏教史(これほど単純なネーミングですむようなお話ではありませんでしたが)でした。わかりやすいカテゴライズや理論をないがしろにしてきたjusaiから見れば、氏のようないわばプロの理論家の存在はまばゆいばかりでありました。そしてjusaiなどは文学的なポエジーにすぐに逃げてしまうのにもかかわらず、あくまでも言葉とともにあり続けるという意志を感じさせていただきました。仏法は言葉にはできないという逃げを持たない覚悟のようなものを持たれているのではないでしょうか。全然、jusaiの想像ですが。氏は若い時にインド放浪をされていたようで、jusaiのような半ば奥能登に引きこもってきた者からはさらにまばゆいのでした。
日本にもこうした理論同士のやりとりが始まる予兆がいたします。理論と不可分の個人の成立もはじまる予感がいたしました。

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