2011年12月27日

会計報告(常住より)


ジュサイはよろみ村の会計係をやっております。よろみ村では味噌づくりと餅つきを終えて、あとは大掃除を残すばかりとなり住人たちはもはや今年の終わりと来年のはじまりをただ迎えるばかりとなっております。
しかし、もう一つよろみ村の根幹にかかわる大仕事が残っております。それがよろみ村の会計記録係たるジュサイの肩にのしかかっておるのです。おおげさと言われても、たかだか年間予算200万円の組織の現金出納帳を足し算引き算するだけではないかと言われても、この記録を発表するものからすれば国家レベルの決算と全く変わらない重責を感じるのであります。
いかなる定義づけをも拒むという定義づけをされ続けるであろうこうした集団につきものなのはやはりお金の話なのであります。(それと異性問題でしょうか)確かに曹洞宗の寺がありますから仏教徒の集まりもしくは有名観光寺の門前町の物売りの店のごとき体裁からよろみ村を判断することも十分に可能なのであり、又無農薬のお米を栽培して売っているという事実がありますからそうした営利団体による決算報告という言い方も十分可能であります。
しかしジュサイが言いたかったのはそうした二次的な問題ではなく、よろみ村とはいったい何なのであるのかという、自らの出自を問うという重大な問題なのであります。そして各人が完全に平等ではありえないという事実が会計報告の決算表の数字によってあからさまになるのであります。みんな大人でありますから終末的な痴話げんかになることはまずありませんが、この決算表にたどりつくまでのジュサイの艱難辛苦を理解してくれる人が一切ないことにどんなに愕然としたことでありましょうか。問題はどんどん複雑になってゆきます。新しき村に暮す新しき人々というイメージを持たれる方もおられるようですが、どんなによろみ村を分析しても、定義づけしてもそれらの結論は必ずといっていいほどその人自身の想像力の賜物にすぎず、よろみ村の全体ではなく一部分を理解したに過ぎないものなのだと思います。なにより、ここで暮す一人一人がどんどんこうした問題を問えなくなってゆく。こうした問題がここに暮す一人一人の脳みそから生まれたのではなくて、こうした問題自身がこのように何を問うたらいいのかもわからなくなるひとりの人間を生み出したのでありますから。
しかしです。ここでお金というもののリアルさが光りはじめるのであります。こんなにリアルに平等に所持されている抽象ブツがありましょうか。いかなる問いも呑みこんで永遠に存在し続けるかのように今ここに現実として目の前にあるのです。数字の記録という純粋記号が!
そして又グルグルと思考はまわり続ける。私とは、あなたとは、一体何?私はあなたではないもので、それならあなたは私ではないものなのだという地獄から脱して新しいシステムは生まれ来るであろうか。お金は有り余っているのに、商品は有り余っているのに、それらが無いことによって自らを殺す人までいるという残酷さにいつまで耐えねばならないのだろうか。と思う。
それにしても、会計係だけが常住の仕事なのではないのだろうが、常に住んでいるという前提が無ければ、常にそこに有り続けるという決意なしに、たとえ金銭的な部面だけとはいえ、現実に人が住んでいる場所の意味を決定することが可能であるわけはないのだろうが、なぜ俺なんだという理由がどこを探しても見つからない。
というようなことをお金(通貨)はあからさまにしてくれます。問題があるということを表示してくれます。ややこしいのは私という意識そのものなのであって、お金(貨幣)にはいささかの複雑さもありえないように思われます。


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