2011年6月11日

雑草との戦いであります



誰も種をまいていないのにもかかわらず、雑草はコンクリートをもつきやぶって生えてきます。よろみ村の田んぼでは長年、田んぼにみんなで入って草取りをやってきました。みんな年をとったり、めんどくさいのはたまらんと思ったり、あるいは書籍にて米ぬかがきくというのを読み省力化でいいのではないかと考えたりしながら現在では田んぼに米ぬかをそのまま散布して田んぼの水を発酵させて、濁らせて光をさえぎり、深水による酸素供給の停止効果とともに雑草の発芽を抑えるというやり方を実践して数年が経ちました。
当然のこととして水を大量につかいます。幸いというと我田引水になってしまうのですが、休耕田が多い当地では比較的自由に用水を使わせてもらっていますし、もともと水に恵まれている場所ということもあって水の乏しい一部の田んぼを除いてうまくこの米ぬかは機能してきました。雑草を抑えるとともに肥料効果もあり年々目に見えて発芽自体がむずかしくなってきた田んぼもできたように思います。
田んぼをやっておられる与呂見地区の方々はとても仕事がていねいで上手に適量の水を使うので尚更水には困らずにやってこれました。
しかしみんなで田んぼに入らなくなって田んぼ仕事も効率的になったのでしょうが、どこかにさびしい思いがよぎります。手で除草をしていたときはそれこそ6月いっぱい、2、3回は約34枚の田んぼを巡回していましたから…。一生懸命だったのです。なにより田んぼというのは不思議なフィールドで、いやいや入ったにせよ一端入ると黙々と目の前の雑草(要するに稲以外の植物)をとることだけしか考えられなくなるのですから、おいしいお米のためになどという雑念も消え果ててただ、田んぼにおるのですから稲がその熱い思いに気が付かないはずがない。
よろみのお米のおいしさは人間の労働量に比例しているはずだと思いたい。
その風景が全く消えてしまったのだからさびしいです。いまや草取りは個人的な仕事になってしまったような気もします。別にみんなが仲良く田んぼに向かっていたわけではないけれども田んぼはそんなバラバラを一つの風景に仕立て上げる見事なフィールドだったと思います。
いつまでも感傷に浸ってはおられませんが…。新しき田んぼの風景が広がりますように。願わくば、土木工事をやっているような田んぼ仕事になりませんようにと自戒しております。何千年も続いた田んぼが我々のこざかしい農法の小さな変化で変ってしまうとは思えません。



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