2011年6月26日

6月24日現在の田んぼの様子


いよいよ田んぼの雑草とのたたかいも峠を越えようとしている。できるだけ楽に田んぼをやりたいという願いが少しずつ成果をあげているように思う。草が生える条件を一つづつ消して、生えてきても成長を妨げるような条件をつくりだし、そんな過酷なフィールドで最善をつくし幸運に恵まれた草を畦ぎわから呆然と眺めるということをやっている。用水の水が不足して深い水をためられなかった田んぼの惨状をみかねて、田んぼに入り素手で草をむしりとりながら、自分になぜだ、なぜだと問う。
草はただ条件がそろったから生えたのだろうか。ただやみくもに生えてきたのだろうか。そこに種としての意志はないだろうか。みんな生きよう、子孫を残そうという願いを持っていないのだろうか。われわれの言う意志などということばを吹き飛ばすほどの種としての意志があるような気がする。田んぼは人間が作り出した不自然なフィールドではないだろうか。自然という言葉の属性を考えるとなると膨大な知識がいりそうでしり込みをしてしまうが、あえて言いたい。
いくつもの田んぼが並んでいて、耕作をしていないものも含めて田んぼは日本の原風景というような顔をしているが、そこに集う幾種もの雑草や初期の早苗を踏みつぶしてしまうアオサギや鴨それに田んぼの畦に大穴を開けてしまうモグラも立派な原風景だ。どうしても稲を中心にしてみる目からは人工的な自然農法しか生み出せないが、そうした邪魔だと思っている動植物の邪魔があってこそ今現在の田んぼのリアルな風景が始まるような気がする。そしてよりよい気象条件に恵まれなければいかに人間が努力してもお米という品物は生まれにくい。宮沢賢治がオロオロと歩きながら見ていた風景も古きよき日本の原風景といったおおげさなものではなくて、こうしたリアルな今現在の田んぼだったと思う。
朝一番に今日一日の仕事の段取りを考えて田んぼ廻りを始めるのだが、へたくそな離着陸で稲を踏んでしまう鴨を追いかけて朝一番に自分の予定がはぐらかされて、でも鴨のかわいさにまあいいかと苦笑いしたりしながら再び畦を歩くとまあ見事な大穴が畦に開いているのを発見したりします。田んぼは想像以上に大きくて本当はここの畦を歩く予定もなかったのに鴨のおかげだと思えたりします。そしてその大穴をこのくそモグラめと言いながら踏みしめてふさぐと気のせいか稲が風に揺れている姿が稲の喜びと重なります。そしてなによりその喜びは私自身の喜びでもあります。きっとそこに自然そのものがあるのでしょう。私が気付かなかっただけで自然は自然としてあり続けていたし、またこれからもあり続けるのでしょう。

2011/6/2 yoromi Tsyoutenura

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