2013年12月15日

原発も遺伝子組み換えもTPPも、賛成か反対かで話しはじめるのは止めようじゃないか。

 どの国の良識も決して中立ではない。中立をつきつめるとよくわからなくなる。事実と真実の哲学的探究という側面もある。そのままをそのままと簡単に言わせない傾向を感じる。福島原発から大量の放射性物質が環境に出てきて以来のテレビや新聞など、報道機関のあやしい動きを見れば私のような社会不適応者の鬱を吹き飛ばしてくれるような人類滅亡物語が感じられる。戦争が始まると精神障害者が激減するという。
 地球がどんどん小さくなっていく。宇宙の果ても見えたかのように、整理整頓された形で、自分の人生もそのような傾向におさまっていく。自分とはいったい何なんだろう、とでも考えるか。問いではなく、ある物語にとっての必然的帰結。終わらないというエンディングを迎え続けるわけだ。やはり自分自身を見すぎると何にも見えなくなってしまう。
 人が人になってから、問題が生じたのではなく、問題そのものが人であるとすれば、全てがつながる。私という事実をそのまま知ることができない者としてこの私は生まれたに違いない。ただこれらは私の脳内でおこなわれていたのだろう。私が私になった瞬間を思うと意識が遠のく。
 順番が違うじゃないか。瞬間瞬間の私の連続をつないでいるのは物語である。
 みたいなことを思いはじめて、まだ4,5年しか経っていないのだけれども。
 今までに一度たりとも途切れていないということもセットで考えるべきだったと思う。何が何と連続しているのかは、全くわかりません。(政治や経済の始まりは、体制を担っている人たちが失敗の無意識的隠蔽という形で間接的に、自らの手で見せ始めているじゃないか?そんなもん、政治でも経済でもなんでもないけど)
 
 こんな風に考えると、なんだかほっとする。
味噌うまいんだよなあ。手前味噌だけど。麹づくり今年もはじまります。

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