2013年12月8日

ちょっと沈んでおりました。

 参議院での特定秘密保護法案の採決より、鬱に沈んでおります。原因はさまざまに思いつきます。政権が国民の懸念を知りながら法案の成立そのもののために強行採決したこと、長男や次男が徴兵されるような事態に動き出したこと。この両極端の間で法案の具体的中身への思いが介在しております。同時に私個人は、この法案が守ろうとする秘密や秘密を漏洩しようとする者に抵触するほどの意志を持つほどの生活を送っているだろうかということも、もう秘密にはできません。「おまえ、関係ないだろ」と言われているような気がしてならないのです。
 現在の日本国における議員内閣制による行政統治は、システムとして私を含む20才以上の全国民が選んだものということになっている。近いようで、遠い、遠いようで、近い、距離感が実測でも想像でもよくわからない。単なる勉強不足なのかと、今頃になって特定秘密保護法案の修正法案を読んでみても、以外にわかりやすい文章だと思うが、日本国が何をさすのかがそもそもわからない。安倍内閣総理大臣の脳は日本国をどのように認識しているのであろうか。
 あの人の国会答弁をYouTubeにてちらちらみていると、さんざん美しい日本とか、世界の平和とかを連発するのに、具体的に日本国憲法の条文を理解されているかみたいな、個人的意見を問われると必ず、私は総理大臣としてここに座っているのですから、いちいち憲法を論じる立場にはありませんと言う場合が多いのは、ずるいを越えてとんでもない勘違い、あるいはとんでもない無思考を正直に言っちゃっているようで、傘下の大臣たちもそのような人間が多いのではないかと心配になってしまうのです。ようするに責任をまったく意識していない。
 民主主義はいかなる自動的なシステムをも排除するための超主観的な人間の意志がないと成立しないのではないか。私はこう思うがないと、簡単に暴走する多数決による意志決定システムになってしまうのではないか。そのためにたくさんの失敗を重ねつつ、血を流しながら修正してきたシステムなのではないのか。
 そこから抽象された言葉として国、平和などの美しい言葉がある。ちょっと元気に私がなったのは、言葉そのものが放つ美しさであって、鬱をもたらしたものは、システムとしての国を美しく輝かせる責任を誰か突出した頭脳がやってくれるからと責任逃れをしてきたことにやっと気づいた事そのものである。
 政治や経済、世界の歴史を自分のこととして、しっかりと勉強しようという気持ちをかりたててくれた今回の特定秘密保護法案審議の課程に感謝したい。

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