2013年12月1日

責任者出てこい。(人生幸朗・生恵幸子)

 テレビで、バングラディッシュの縫製工場の話をしていた。国のメイン基幹産業である。設計より建て増して5階建てから8階建てに作られたビルが、朝一番に2000台のミシンが一斉に始動した途端に倒壊して従業員が1000人以上死んだのだそうである。(黙祷)。
 バングラディッシュ国内の財界団体(カルテルだと思う)の副会長(実働するポジション)を労働者(従業員でもある)から見れば、悪人に見えるし、副会長からすれば商品を発注する欧米の資本家たちが悪人である。労働者は生活ができないから給料を上げろと言うし、資本家からすれば、欧米の資本家たちの工賃が下がっているのに給料を上げろという労働者は会社を破壊しようとする怪物に見える。立場を変えて見れば、どこにも加害者がいないのであった。
 従業員を労働者に、経営者を資本家に単純に言いかえたせいでもある。カテゴライズされた物語を、いろいろと組み合わせれば、今では私のようにちょっと経済学をかじっただけの者でも容易に世界を分析することができる。
 日本の温厚そうな経営者が登場して、物語ではなく、一つの企業行動が紹介されると、再び資本家は経営者に戻り、労働者は従業員に戻された。この一企業人の温厚そうに見える人柄による。もちろん私の主観によって世界を自分に近づける。ここで問題にしたのは、万国共通のカテゴライズされた用語によって再構成する世界と私の主観によって意思を吹き込まれた人間同士の関係性によって再構成される世界との微妙なズレである。もちろん、主観もすでにカテゴライズされていることは間違いない。あーややこしい。
 家計であれ、企業であれ、自分が出す金銭よりも自分のところに入ってくるそれの方が多くないと明日はない。だから必死である。これはわかる。さて、公会計はだいぶん話が違う。赤字になってもつぶれない。アメリカでつぶれた都市はたくさんあるが、財政危機の国もあるがつぶれない。つぶれようがない団体が確かにあるのは、ものすごく主観的な理由がありそうだ。
 バングラディッシュの国情に戻る。自分が支払う金銭をもっとも少なくできたかに見える欧米の資本家が悪の元締めのように感じられる。番組では顔も声も出さないから尚更イメージが暗く、怖い。ほんとうにそうか。今はやりの陰謀論で言えば、ユダヤの商人に結び付くのだろうが、限られた人間が掌握しているのは金銭であって金銭的価値そのものではない。そして金銭はどのようなものにも価値を見出すことができるから、端折って言えば、金銭は金銭的価値の奴隷なのである。
 金銭と金銭的価値が限りなく相同であると勘違いしている日本は、財政学的に言えば破産団体である。国の借金を国内でまかなっているから大丈夫だと思っている国民の主観によって成立してきたし、これからも成立していくだろう。自国の利益を企業の利益と同じであると思っているのは、はたして議院内閣制により誕生した内閣総理大臣だけであろうか。家計と企業会計と公会計をまったく同じものとみなしている国民性に問題がないのであろうか。
 精神的な側面も持っていた資本主義がシステムとして稼働するということは、ある種の破たんを意味するのではないだろうか。資本主義を現実的に容認すればするほど、資本主義の抽象性が増している。金銭的価値と金銭を同一視し、入った金銭から出した金銭を差し引いた利益が善であるかのような短絡を許しているのはわれわれ一人一人ではないだろうか。私は価値を生み出す責任者のうちの一人だったのである。バングラディッシュのみならず、世界のどこを探しても悪の元締めは出てこないのである。探そうとすればなおのこと、絶対に敵は見えなくなるのである。資本家を倒す労働者という図式よりも、貴族(働かなくてもいい)と民(働かなければならない)という図式の方が今でもバリバリの現役なのです。だれしもが働かなくてもいい方を志向していては、さらにさらに世界の抽象性は増すばかりなのである。文句を言える対象が消え果てて、あたかも責任を背負っているかのような生贄を探すばかりになってしまうのである。
 金銭的労働と金銭的労働でないものをひとくくりにしていますが…。

追記

 暗い青春時代、人生幸朗・生恵幸子がテレビに出てきただけで、死ぬほど笑っておりました。「責任者出てこい」とくだらないことにだけ難癖をつけるのです。

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