2013年12月2日

何をかっこつけてんだよ。おっさん。

 池田信夫とかいう人のブログ記事をフェイスブック上で見る。特定秘密保護法案に賛成の記事である。今回の法案は秘密を守らなければならない人に対する法律であり、巷で大騒ぎされているような普通の市民を弾圧するような法律ではないんだということを、朝日新聞批判をベースに論述されてある。国家をどのようなものとして見るかによって、善悪という主観的な問題に還元するかのような議論をしたくないし、法案の細部の運用を予測できるほどの感覚も薄いくせに、特定秘密保護法案の是非を言うなと言われるかもしれないけれども。
 国家の提出した法案を賛成するということと、反対するということは対等に測られる市民の行為なのだろうか。法治国家における立法府が賛成している法案をそのまま賛成する側が目的達成(法案の成立)のために費やす努力と反対する側の目的達成(廃案)までの労力は同じ基準で測られるだろうか。法案提出の時点でそれを賛成するということは、すでに有利なんではないだろうかということを言いたかったのですが。同様にちょっとそれおかしいんじゃないかなあああと思っただけで反対なんだと言われる者が反対と意思表示する時において、すでにハンディを背負っているのではないかということが言いたかったのです。

追記20131209 
 若者はすでに知っている。12月6日参議院本会議で法案が採決された後、催された会合で女子大生が発言しています。
「賛成か反対の意見を強いるのではない。でも、傍観して自分の意見を言わないことは中立とは言えず、権力に力を与え続ける暴力行為だ」と呼びかけた。
               
 
 ずるいかもしれないけれども、私は構造のことを言いたいのです。大勢の人が反対もしくは懸念を持っている法案に対して、賛成することのカタルシスなんてないんですかね?私もイニシアティブを持った国家の行動に対して異議を唱えるというカタルシスがないこともないですが、この法案に対しては、恣意的な運用を戒める歯止めがシステムとして条文に入れられていないことからみて、廃案にすべきだと思います。賛成する人はようするに、なんらかの恣意的集団で安住されている方なのだろうと思います。いいじゃん、ボロボロとマスコミにしゃべっちゃう大臣なんて。とろい国でいいじゃんか。そんなことで他国から攻撃されたらどうするんだと言うが、戦争は相手の状況を斟酌して行われるものではない。攻撃される時は攻撃されるのである。(違うかな?)Cool Japanの中には、そのようトロさも入っていると思うんだが。

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