2013年11月29日

参禅体験。

JUSAI 123 : おじさんが、まず体験したいよ。
薪は拾ってきてタダなんだが、ストーブはスウェーデン製で21万円。


 明日は、三井小学校5,6年生の学年行事としての坐禅体験が、よろみ村の龍昌寺にて行われます。全員が来れば、児童が15人、ご父兄を加えて20数名と思われます。これまで龍昌寺には全国津々浦々からご客人が見えておられましたが、地元の輪島市から、このように大人数の方が来られるのはそうなかったことと思います。しかも、よろみ村という理想郷へやってくるのではなく、坐禅という仏教の中では、だれにでも知られている行を体験するために大人への入り口に立つ子供たちがおしかけるのです。

 村田住職はいつも、こうした参禅体験の際、自らの側からだけ一方的に話すことのできない方ですので、今回も車座になって子供たちやご父兄との双方向の語らいをされることでしょう。できれば、私としては、一方的に村田住職のお話を聞いてみたい気がしております。ご父兄も、まさか自分が坐禅のことや仏教のことを話すなんて思ってもいないような気がします。

 私もそうですが、禅僧に対しては、その悟った状態を私たちにもわかるように表現してほしいと、みなさん思ってらっしゃるのではないでしょうか。違うかな。もしかしたら、明日30分ほど坐って悟ってしまうやつが出ないとも言えないし、なんともわかりやすすぎる形ゆえに、いかようにも解釈させてくれる自由さが、結局、最後の最後に究極の不自由さをもたらす可能性を持っていると、坐禅に対して思考しているわけです。とにかく、坐れと言う道元禅師に対する懐疑が年々、深くなっていく私です。

 輪島からほとんど出たことのない私が、暮しているよろみ村をどこにも比較するところのない、新しい村と思いこもうとしてきたのですが、実は生まれ育ったところ、すなわち、ものごころがついたところ、すなわち、自意識が生まれる前に身体がすでに生まれていたところから一歩も出ていないコンプレックスの裏返しが、そのようなユートピア観を生んだのは間違いないようです。坐禅や仏教とは、そのような屈折の中でイメージを私に与えてくれていたのです。それらの解釈を洗練させることがいつしか、仏の教えと流れを一つにすると思っているのです。今でも!。そして、どのような思考も、つまりはあらゆる言葉を費やしても、必ず失敗するとわかっていても、直ちに止められないのが私なのです。

 私は私をすら代表できない

 私は力をこめるほど私が私から遠ざかっていく

 あからさまに、つねにそこにおるではないか

 私が。

 

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