2013年11月30日

とにかく座りなさい。


 座禅体験の行事が終わりました。何がわからないのかがわからないという状態で、はたして、道元禅師に対する懐疑が深まるなどということがありえようか。疑いなど持てようか。いったい何を伝承してきたのかがわかっていないものが何を言っても届かない。

 村田住職が具体的に座禅の方法を教えてから、皆がチーンの合図で座りはじめました。静かで厳かな空間に一瞬にしてなりました。自動的な感じが、伝統っちゅうものを感じさせてくれます。疑いなど感じているひまもありません。けっこう座れるじゃん。そして身体の痛みがそのようなドラマを吹き飛ばしてくれます。はよ終わらんかな。

 座禅を終えて、庫裏にて、談笑しました。村田住職は話すことを入念に準備されていました。メモを見ながら、子供たちやご父兄の反応を見ながら自分のご先祖さまに対してのありがとうとすんませんをそのままあらわしているのが合掌であり、そのような単純な事実を常に忘れていること、何がわからないのかがわからないのだという状態を自動的に感じざるを得ない行いとして座禅などがあるということを知らせてくれました。村田住職はちゃんと衣と袈裟を装着されておられました。

あいかわらず、自分を中心にしてしかこの場を見ない私は、勝手に、三井の地元からやって来られた方々が思うのは、この龍昌寺という寺がわざわざ、金沢から輪島にやってきて、この寺の住職はいったい何をどのように、またなぜ、やっているのかを知りたいと思うんですよとやってしまった。「みなに自己紹介をという前に和樹さん自身の紹介をしてからにしませんか」と。師は「そんなもん、あんまり、どうでもいいじゃないかな」と一蹴されました。

 しかし、子供たちのための行事であることをすっかり忘れておりました。緊張してみなをもてなさないとと思っていたのですが。朝のお勤めに行くと、本堂には座布団がしかれており、庫裏にはストーブのための薪が並んでいました。そして、お勤めの後に和樹さんが「雪が降っとってみんな大変やね」と言いました。私はなんと言ったと思いますか。「みんな三井の人ですから雪には慣れています」です。何の準備もしていないで、自分の準備しかしていない。30分前にIさん母子がよろみ村までやってきました。ほーれ、皆さん勝手にやってくるではないか。さても、Iさんは「寺への入山口と県道からこっちに入ってくるところに人が立っていたほうがいいかもしれませんねえ」そうか、とあわてて、車で県道と市道の交差点にて皆さんを待つ。お父さんが同行できないKさんのご子息を助手席に乗せて本堂に帰る。車中Kくんは理路整然と寺ではみなさんどのようにされているんですか」とあたりまえのことを尋ねられる。ぼけーっと本を読んだりしているだけだとも言えず、考えているふりをしながら、自分でのわけのわからないことをしゃべっている。その醜い姿だけは見せてくれる。何でも素直に聞いてくれるから、Kくんの応対は、ますます私の醜さを浮き彫りにしてくれる。

 
自分のことをも、もてなせない者に他人をもてなせるわけがない。他人をそのまま感じることができない。なんとなく、で行事を終わらせて散会となる。Kくんのお父さんはまだ来ないので二人して庫裏のストーブの前で話す。「さっきの寺の人は今どこにいるんですか?」さっきの寺の人というのはおそらく村田住職のことだろうと思い、さっき座った場所のその奥にふつうに暮らしているよ。場所、ふつう、暮らす自分の話している言葉の正確性を問うているつもりだったが、そんなことをくりかえしているオトナの言葉はひどくわけのわからないものと感じることだろうと思う。何を伝えたいのかが全てじゃないか。一人で問うしかないんだ。この寂しさの真っ暗闇まで行かんといかんのだ。そして窓が開かれるようにして、他人の存在があるのではないか。まだそこまで行ったことがないから、ゼンゼン想像でしかないのだが。
右 村田住職(ブログへ)  左 三井小学校の児童たち。
「12月8日はね、お釈迦さまが悟りを開いた日なんだけれども、そのことを追体験するために、12月1日から8日までずーっと座禅しっぱなしのお坊さんが日本国内に1000人ぐらいはいると思うよ」と知ったかぶりをするとKくん、驚いてくれた。「そんなこと可能なんですか?」「やったことがないからわからないけど、可能なんだよ」


 昨夜、晩御飯の時に、末娘がうれしそうに、「死後の世界ってあるげんよ」と言った時に、これだけは大切だから言っておかないとと思って、「戻ってきて死後の世界を説明しているだけで、その人は結局、まだ死んでいなかったのだから」と言ったとたんに末娘が烈火のごとく怒りました。「うすうすそんなことはわかっていたけれども、こんな時に自分の考えを押し付けているあんたは空気が読めないKYやけーわい」今度は私がキレて「どんな空気や、一生空気を読みながら生きていくんかい」と論点を完全にずらしてしまいました。


落ち着いて考えてみると、私はまだ死んでいないから、死後の世界があるかどうかわからないということを言いたかったんだな。と思いました。でもやはり死後の世界なんてないんだあと断定しているとしか思えない口調だったのだ。それを末娘は怒ったのだった。



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