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2014年3月18日

猿山

  猿山を縦走。日本でも有数の雪割草(ここのは、キンポウゲ科のオオミスミソウ)は三部咲きでした。お父ちゃんがここ、皆月に居を定めておればここが故郷だった。
 コナラやケアキの原生林が大きく間隔をあけて生えている。春にシフトしたような太陽が差し込んでいてとても明るい。縦走の終盤、海が広がる。地球が丸い。
 ふもとに降りる。下界は草も、我先にと陣取り合戦のように込いっているなあと感心しました。帰りに実家に寄りお母ちゃんになぜ嫁としてあそこに行かなかったんだとせめる。それから嫁姑などの話になり、こちらからすれば当然の思いもあちらには全く通じないことがあるのだなあと、お母ちゃんの顔をしみじみ見た。
 どうにもならないのだなあと思っているとお父ちゃんが帰ってきて皆月の話になり、小説にもなっているし、人によってはあそこは犯罪者が隠れやすい地形で、ちょっと不気味なところがあるなあと、何気に言うと、父らしくもなくへらへらと笑いながら、昔、朝鮮人が海から上がってきたから、どこそこのなんとかさんが殺して、わしの家の田んぼに埋めたことがあってな、それからその田んぼはチョウセンタンボって言われるようになってな。「あんたもももしかしたら、殺人に手を貸したんと違うやろね」と尋ねると益々、父はへらへらとなって「違う違う」と茶化すのでありました。一瞬父がのっぺらぼうに見えたのでした。
 

2013年4月26日

自意識に過剰などあるだろうか?

父の兄弟が金でもめているらしい。あの人格者ぞろいの兄弟がけんかをしている。美しい思い出が、また一つ消えた。悲しんでいるわけではない。いらぬものが消えたという喜びがないわけではないから。父は長男として明確に他の兄弟と区別して育てられたにもかかわらず、家そのものを守るという感覚が無い人で、(genさんは理科系の人なんだねえと言っていた)ほぼ、妻(私の母)の婿のような生活をしてきた。長男としての責務を果たさなかったから家が消えようとしているんだ。でもよく考えると私の今のやくざな暮しが可能なのも、父がそのように守るべき家など無いんだと言葉ではなく実践として教えてくれていたからなのだが。そうだよオヤジ、兄弟げんかなんだぞ。あなたは今、実践してきたことを言葉でもって姉や弟妹たちに投げかけてみるべきだ。おれたちは同じ父と母から生まれ、育てられてきたんだと。
 夜、wajimaの街を歩いていると、私の記憶どおりの街が、実は現実にはなかったことがわかる。それでも、やはり目の前にはいまだにwajimaの街並みがある。そして、三度、wajimaの街は無いことに行きつく。そして、四度、あらわれるのであった。

シンクロニシティか。別な伯父さんが定期健診でmii地区唯一の病院にminazukiのワカメを預けてくれたのを取りに行く。寡黙な元小学校校長で、海散歩を今でも黙々と続けているそうだ。minazukiは父の生まれ育ったところである。兄弟姉妹たちが生まれ育ったところである。

とれたて。

レシピも添えてくれた。小量でまずは試せと、簡潔に書かれてあります。(嬉)(涙)

2013年1月27日

神事。


face bookにアップされた「あえのこと」神事の動画を見ていたら、どこぞの外人さんが珠洲市のsumaki地区で行われている、冬の間、田の神様を戸主が自宅にてもてなし続け
る行事を紹介していた。ユネスコの文字もあり、地球の裏側からやってきた異文化の人たちが、エスニックに東洋を紹介してんだろと思っていた。しかし、外人さんが裃を身につけて、神さまを迎えるシーンとなって、ふと思う。この人どこかで見たことがある。ネイティブなアメリカ英語にだまされていたが、声にも聞き覚えがある。珠洲、すず。そうかキャロラインさんではないか。画面の外人さんが、いきなり知っている人になると動画が一変する。妙に、落ち着いて、静かに正確に奥能登の空気感をうまく出してやがんなあと思ってたんだなぞと言い訳もする。かの外人女性は珠洲に暮らしているのである。(しばらく音信がないので正確な情報はわかりません)
 そんなに親しいという感じではなかったのですが、ハスキー犬を預かったことがありました。ちょうど我が家にもハスキー犬を飼っていたのでした。♂のマルは♀のスカイに大喜びだったなあ。

読んでいただけますでしょうか。

読んでいただけますでしょうか2

自家水道出ていないのでどよーんと落ち込んでおります。こんな時しか水があると言うこと感謝できないのですが。水さへ出るならば、どんなことでもするなんて思っている時の、どんなことでもほどあてにならない、祈りと誓いはないですね。困った時にだけ、出してくる神様の御身にもなってみよと。うーmm。

訂正  キャロラインさんが裃を身につけてとありますが、羽織を羽織っているのみでした。(戸主しか裃を身につけちゃだめなのでしょうか)

2013年1月15日

Noto半島の古地図。

平成と昭和の大合併以前の能登半島の地図を見ていると落ち着く。まだ村がほとんどで、要所にポツンと町がかろうじてある。町以上の属性は、どんどん抽象性が増していく。意識の上でしか存在できないような砂上の楼閣である。国や世界なんていうものにたどり着く。まつりごとではなくて、政治を必要とする。
 與呂見と重々しい名前が奥能登のほぼど真ん中に書いてある。往時はゆりかごから墓場まであらゆる世代がそろっていて、小学校の分校まであった。今はどうだろう。一番若い人で70才をこえていて、祭りのみこしも神社を出ない。そしてjusaiが言うようなyoromi村なんてのも。あるようでない。ないようである。妄想上のものだから、常に定義付けをしないと消えてしまう。そして区切られ、隔絶されながらも、足下には確かに地面がある。大地などというしゃれたものじゃない。チベット民族まぼろしの王国シャンバラのように解脱の後にあるような神秘でもない。
 誰に区切られずとも確かにある村は、もはや無く。また、これからたどり着く小さな点もなく。ただここに立っているしかないことに無常の寂しさと永遠の矢印を見つけてうれしいんだと思う。
げんさんの薪山。垂直、水平きちんと出ている。

昭和11年ごろの尋常小学校の教科書についていた。

追記。

 用事で町に行ったら、コミュニティバスが走っていた。胴体には永井豪のマンガがデカデカと描かれてあった。jusaiが小学校低学年のころ、ハレンチ学園が全盛で、同級生や先輩たちと永井豪って輪島出身なんやてな。と、ひそひそ話していた。なぜ今頃になって美術館やら輪島市のIDに使うのだろう。なぜ、当時、支援しなかっとたのだろうか。やっぱりハレンチだぞ、バスが。

 

2012年12月21日

2012年11月4日

中央コンプレックス。

小学校の炭窯の煙突が詰まっているのだが、構造的に詰まった煤をかきだせないようになっている。困った。掃除機の先を入れて少しづづ吸いとれとアドバイスを受ける。やってみるしかない。中止の可能性もある。
taniguchiさんと炭材を運ぶ。
午後、「たくましい奥能登っ子を育てる」ど題した会合に出る。講演もあり、春蘭の里というブランド化された「何もないところがいいところ」である地域(すごいあいまいな名前)で、女将をやっている方が壇上におられた。民宿が35件ほどある場所(いい加減な言い方)で、年間6000人近いお客さんが来るそうだ。システム化されていない、普通の町民と普通に触れ合うことができるので、リピーターがたくさん生まれて、口コミでも広がっている。県や国の支援、法律の改正、規制緩和などの追い風を受けて、ものすごく有名になったらしい。なんか、遠いな。そんな展望なんか開けないな。どうすればいいのか、皆目わからなくなってしまった。そんなことできやしない。
奥能登独自の教育で、中央にうまいこと子供たちを旅立たせる。終わり際に東京んに向けて飛行機が飛んで行った。於能登空港。
炭窯は島根方式なのだそうだ。なぜ、地元の方式をとらなかったのだろう。炭材を提供してくれたyoromiのnakada(本家)さんによれば、mii方式は煙突掃除がすこぶる楽なのだそうだ。ローカルなままでは立ちいかないようにできているのだろうか、地域は、この場所は。


yoromiから能登空港は近い。帰り道、田んぼからけむりがあがっていた。いいなあと思ったけれども、すごくさびしいと思った。


2012年10月12日

谷口商店。

 T商店裏という田んぼがありまして、そのT商店というのはyoromi地区では閉店しており、(一昨年まではKolaの自販機があった。)広大なmii町の中心、旧mii駅のある小さな街にて小さな食料品店を営業されています。そこのご主人はmii町の将棋大会のチャンピオンで、yoromiの山をはじめとして、その自然を熟知されておられます。(勘ですが)
 なによりそのことを証明する商品がございます。noto半島には馴れずしというのか、ひねずしというのか、地元でとれるアジやサバやカワハギの発酵食づくりがさかんな地区があって、その伝統をくむのかどうかはわかりませんが、とてもご飯にあうのです。それ自体がお米を炊いたものをベースに発酵させていますので、焚きたてのご飯によって味が完成するといっても過言ではないほど、ごはんと相性がよいのです。日本の各所にそうした工夫が生きづいていますが、チーズのような、ほどよい腐りかげんが舌を刺激してまいります。
谷口商店。産。
ちょうど、それらの発酵食がねむる樽がおいてある倉庫のそばに、川をはさんで田んぼがあります。ときどき、その倉庫をちら見いたしております。最近は日中、奥さまに店をまかせて、yoromiの山に入っておられます。イノシシ対策に専用の刀を持参されているとのこと。さすがです。
「イノシシ、おいしいげぞ~」「昔もおってんぞ」

追記

 nakataさんにmii小学校の炭焼き用原木をお願いに家による。yoromi地区のお宅はみな、不必要なものが全くなく、きれいにされておられます。「今年はキノコないなあ」11月初旬に、あんたとまあ二人ならなんとか一日で切りだせるやろとおっしゃてくださいました。ふんとに頼りになる人ですが、以前、「あんた、まだ60前やろ」と言われました。うーmm。

2012年7月4日

奥noto ツアー。

新しい道路や建物になっているにもかかわらず、どこかちゃっちいwajimaの市街地ゆえに、monzen町などは、さらにさびしい風景がひろがっていると思いながら、kuroshima地区北前船さかんのころの廻船問屋だった旧家を見にゆきました。さびしかったです。が、よきあきらめのような、たおやかな空気を感じました。kuroshima地区は高給とりの船員だった方などが多くて、金銭的ゆたかであるということもあるのでしょうが、それだけではない質実な空気を感じました。その思いは旧家の中をガイドの方にしっかりと案内されて裏打ちされました。建物自体の構造もさることながら、自前の船で日本中から商品を買い付け、売りさばく才覚と最大で一航海で一億円を超えるお金をまわす度量に、並々ならぬ気合を感じました。なぜ総持寺のような曹洞宗教団の本山がこんな壁地にあったのかという疑問も、若干解消しました。教科書で習ったほど、日本海側は太平洋側に劣っているわけではなかった。僻地ではあったけれども、当時の物流にて主流であった海運のルートとしての大きな海が目の前に広がっていたのだった。
もっとも感動した風景。玄関を入ってすぐにある帳場。複式簿記にまさるともおとらない帳簿システムが日本にはあったのです。wajimaには頼母子(たのもし)という無尽講のシステムが今でも盛んです。銀行法の網の目にかからない超ローカルな金融システムです。そこでは現在もっとも失われてしまった経済活動における倫理が前提とされているのです。
離れ。(主人の個室)上り旗をあげた船の入港を、ここで望遠鏡をもって待ちます。
もともと、wajimaの市街地などは人や物の出入り口として作られた臨時の町だったのです。そんなもともと太平洋側に対する巨大なコンプレックスによってできあがった場所が、いまだにそのような心性で、舞台のセットのようにして、つぎはぎされていくのとは違って、前向きなあきらめによって極端に町を変えない楔のようなものがあるような気がする。monzen町は。なぜwajima cityに編入してしまったのだろう。もったいない。下品な観光都市の仲間のように見られてしまうじゃないか。

続いて、日本最大の現存寺院ではないかと言われる、阿岸本誓寺を参詣いたしました。背後に椎のうっそうとした森を抱えて、静かに建っておりました。
父によれば、親戚なんだそうだ。


morishitaさんと最後はつりをしました。何十年ぶりでしょうか。海もひさしぶりでした。
笹竿。エサはスーパーのいわし。

ギャット(カエルの方言か)ハチメ。すまんなあ。

2012年6月6日

お百姓さん。

 旧柳田村を通ると、尋常ではない丁寧さで草刈のなされた田んぼがあります。奥能登は全体的にそのような傾向があるのですが、ここのは更にその上を行っている。職人が壁を塗ったようにして、それが普通の光景としてある。同時に、草刈がなされていなかったり、刈ってあっても、どこかちょっと違う田んぼも増えてきた。ひがな一日じんまりと草をつんでいるおばあちゃんも減ってきている。一気に丁寧な田んぼが減っていくのかもしれない。経済成長を経ても、なお受け継がれてきた丁寧な田園風景が変わってしまうかもしれない。上手に田んぼを仕上げる人は居続けるだろうが、どべっとアゼ際にたたずむ農夫はいなくなってしまうだろう。単に心を込めて田畑に向かうのではなくて、ただ風景としてしっくりと佇む農夫が居なくなってしまうのだろう。徐々にではなく、急激に消えてしまうのだろう。
旧柳田村 某所にて。
にしても、左官仕事のようなアゼ塗りが消えて久しい。


「働かなければ食ってゆけない」――我々が生きる世界は苛酷だ。しかも「働く」ことが「賃金を得る」ことを意味している。資本主義経済は労働を貧しいものに変えてしまった。そして食べることと働くことを完全に切り離すことに成功した。

 等価交換の幻想を支配しているのは金融と流通である。そしてこの舞台に広告会社とメディアが演出を施す。経済の実態は消費という反応に堕してしまった。

ブログ 「古本屋の殴り書き」より、コピーさせていただきました。

2012年4月20日

春祭り。




ふだんは静かにたたずんでいる神社のまわりがなにやら、にぎわっていました。どうやら春祭りのようです。村田住職に聞くと、ほんの少し前までは神輿が各家々をまわっていたそうです。昨日のPTAの折、Hさんと「あえのこと」のことに始まって、ご近所の古老たちのふだんの何気ない仕事振りやしぐさの話になりました。ただ畑にいて、田んぼのいて、ただ散歩をしているのだと思っているその中に私たちが身につけている近代性とは違うふるまいがあるのだそうです。

2012年2月18日

「へなま」の意味について

風邪をひいてしまいました。全身だるく、喉が少し痛いです。これぐらいの中途半端なか風邪は、ふだんならば怒ってしまうようなことにも怒る気力がなくなってむしろ平和です。これくらいの思うようにならないがいいです。能登半島の丘のような山、用水のような川、雨も風も人も中途半端で好きです。

【奥能登の研究―和嶋俊二】よりhttp://jusai123.blogspot.com/2012/01/blog-post_18.html
奥能登の農山村の各家庭で、個々に行われるその祭儀は、まことに繁簡区々であり、そのいわれや伝承についても異同が多く、いずれがその祖型なりや否やは容易に見分け難い。その点、皇室は日本の大家(おおやけ)として千数百年来(文献上の初見は清寧紀二年、厳粛に神秘的に行われてきたものである。それにしても応仁の乱で絶え、二百有余年を経て東山天皇が徳川幕府の援助を得て貞享四年(一六八七)復活されて今日に至ったものであるという。研究者の中にはこの大嘗祭空白期間がなんとも大きな痛手という。これに対して奥能登の「あえのこと」は、国家神道や荘園領主・武士などの政治権力の統括統制を受けず、ひたすら農耕民としての敬虔な信仰を、素直にうけついできたもので、ここには父祖の気持ちが生きており、それを通して日本人としてのアイデンティティーを自覚することができると信じるものである。

当地であえのことは必ず、絶対に二ユースで放送されますが、ものごころついてから最近まで笑ってばかにしておりました。N家の当主以外にもこの神事をなさっていたお宅もあったのでしょうが、いつも裃をつけておおげさに見えもしないものを12月に招きいれ2月に田んぼに送り出すのを見て、こいつバカじゃないのかと思っておりました。ごめんなさい。あやまります。確かに見える妄想を具現するのと、まったく見えないものを見えないままにしておくこととどちらが非科学的なことかと思う。古い行事を我々のこざかしい大脳新皮質だけで見てはいけない。古い行事の最たるものは、方言そのものではないだろうかと思う今日であります。

2012年2月8日

ぎんばさという響き

 妻が私の父から「ぎんばさ」(海藻のホンダワラの一種)を酢であえたものをもらってくる。その海藻は父の実家である皆月の浜辺にうちあげられていたものを父の義兄(私たち夫婦の仲人)がとってきてくれたものであるらしい。父は長男でありながら早々に輪島の市街地に定住したのだが、当時流行り出した魚肉ソーセージが地元の天然の海藻よりも大好きだった私にそうしたものをおしつけることがありませんでした。自分のあしもとにある、食べられるものよりも遠くで加工されたもののほうに価値があると思っていた私でした。
年のせいなのか、最近地元でとれた魚や海藻、その他の加工品を食べたりすると妙にうれしい。父の味付けは少々甘いのだが、それでも皆月の海や寡黙なおじさんのことが思われて気持ちのよい晩御飯となりました。

2012年1月18日

奥の奥の奥能登(原子力発電所を拒否した珠洲市)



 久しぶりに太陽を浴びる。太陽の出ない日々は全然苦痛ではないのだが、どうも自閉してしまうようだ。本来私は当地のネイティブでありますから自らの生きる気象条件に文句を言える筋合いにはないのだが年老いたせいであろうか、あるいはほんの少しばかり当地の外である表日本の冬季の気象条件を知っているせいであろうか、当地はいまさらながらこの季節においては暗いのだなあと思うのだ。

図書館で借りた「奥能登の研究」(和嶋俊二)を斜め読んでいる。こうした郷土史本は、だいたいにおいて、おらが村自慢というスタンスからしか出発できないものなのだが、和嶋氏のテキストにはそうした欲望のかけらも感じられず、読んでいて気持ちがいい。素直に自らの立つ場所の現在を知らんがためには目に見えない歴史をできうる限り正確な資料(テキスト)だけを元に見なければならないことを教えられます。正確な資料というのがくせもので、極端に言えば平氏の歴史が源氏の手にかかるように、時の権力の影と切っても切れないことを忘れてはならないと思うのだが、氏はそのことと同時に自分の研究の成果も同様な結果をもたらすことをも視野に入れているように思う。(斜め読みですが)
古代、半島や大陸との交通の要所であった土地の知的伝統であるのかもしれない。どう考えても経済的、政治的、文化的に拒否することは不可能であると思われていた原子力発電所の計画を自前で吹き飛ばしたのが珠洲市である。珠洲市をはじめ中世以後、急速に裏の裏、奥の奥に追いやられた能登各地にはテキスト化されていない生の心性が現在を生きる人のどこかに仕舞われているのではないかと思い嬉しくなったりしております。
もっと奥に探求を進めるならば思いもよらぬことを発見するのではないかと思う。

立て掛けてあった板に何かの巣であると思われる。ここは彼らにとっての土地でもあるのだ。


奥能登の研究―歴史・民俗・宗教/和嶋 俊二

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2011年12月15日

しったくせぇ(少ししか知りもしないことを全部知っているように見せやがって)JUSAIが人に言われると最も傷つく輪島方言であります。

予想外の好天の中で、じいさんが土手の草刈をていねいにしている。あれって、自分の土地だからだけなのかと思う。能登以外の土地をあんまり見たことがないのだが、全国的にもかなりていねいに手入れ、目入れがされた土地柄なのではないだろうか。畦ぬりもまるで左官の手間賃仕事みたいにていねいだ。若いころはまわりに対する見栄だと思っていたのだが、それだけではない何かを最近感じる。世代が少し若返ってそうしたていねいな仕事ぶりが消えそうだから、なおさらそう思うのかもしれない。
白菜の結球が悪い。種の古いものを使ったからだろうと思ったが、知恵者に聞くと苗の定植の時期がちょっと遅かったのかもと言われた。予定をたててやるのだが、どんどん消えゆく古老たちは自分の時計というか予定表を体に刻んでおり、わざわざカレンダーと相談して種蒔きその他をやっていたのではないのではないかと思う。手編みのかごや、仕事や生活の道具類をおおむね自作でまかなってきた古老たちは生活者の部分と仕事の部分と余暇とがわれわれの世代のようにはっきりと区別されているのではなく、それらが渾然一体となった時間そのものを、己が身体とともに過ごしてきたのではないか。民俗学的調査すら不可能だった一つのフィールドが今消えようとしているのではないか。
ダライラマ14世が絶賛する古代と現代との見事な共存した姿が日本から消えようとしている。そして民俗学的博物館のような復元都市が各所にできることだろう。そこで人はむずかしい配役をせまられるのだろう。
こんなもんつくれやしねえ。

2011年12月13日

重たそうだが

穴水町 根木ポケットパークより能登島を望む
同上
冬晴れの能登の海にて、五輪の塔と観音様であろうか。このような晴れた12月はめずらしいことです。

2011年12月9日

師走

12月はなんだか気ぜわしい。急に時間が速くなる。なぜだろう。一年の終わりは何か別なものの終わりを暗示するのだろうか。終ることで始まることを感じるからだろうか。まあ、事務的に忙しいだけなのかな。単なる暦が一巡したってことか。
よろみ田んぼ街道(勝手に命名)12/9
今日初雪が降り、自宅の半径5キロ圏内にて約10センチの積雪もありました。与呂見地区は市内でも有数のきのこ産地で、積雪量もとりわけ多い地区です。地形と気候がそのような風土を形成したのでありましょう。さらによろみ村は与呂見地区よりも少しだけ標高が高いせいか、さらに雪が多いのです。わずかな積雪にたかをくくっていると、来年三月、へたをすると4月まで根雪となって自動車での入山、下山が時に過酷な試練となったりします。毎年心の準備はするのですが、何年たっても雪の力をあなどってしまい、現実の雪景色を見てはじめて冬の到来をはっきりと自覚したりします。越後や信州のような迫力がないからこんなことを言えるのでしょう。この中途半端さが能登半島のいいところだと最近思うようになりました。へなまな環境、地形(一番高い山で500メートルちょっとです)気候を他の地区に比べてコンプレックスを抱いておりましたが、いやいや白黒をはっきりとつけるような傾向を持った日本の中では希少な価値を持つのではないかと思い始めております。TPPはどうするんだと眉間にしわを寄せているマジな人たちに、てぃーぴーぴー、はぁ、みたいなノリができるとろくさい空気を残す素地があるのではないかと夢みております。そして真剣に考えるということを本気で真剣に考えるのであります。
吉崎次場弥生公園
本日私のパワースポット吉崎次場公園のそばに仕事で行ってまいりましたが、雪などまったくありませんでした。奥さんの実家のあたりなので、今日「よしざきすばこうえんのあたりにいってきてんぞ」というと「ちがうげんよ、よしざきじゃなくて{よっさき}やよ」と返されました。その響きはそこで生まれ育った奥さんにしか正確に発音することのできない方言そのものであります。長い年月を経ても、いかなる意味の変遷を経ても発音だけは維持されているという奇跡を感じさせてくれました。
夕方よろみ村に帰ると、もしかしたらまだ根雪にはならないかなと思いました。私の都合で雪が降ったり止んだりしないということはとても過酷なようでいて、とてもありがたいことなのではないかと思いました。


よろみ田んぼ街道(やっぱり勝手に命名)5/16(田植え直前)