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2014年3月16日

民族。

 図書館で借りた『海女の島ー舳倉島』F・マライーニ を読む。舳倉島は輪島の沖合30キロぐらいのところにある天領です。(今もそうなんちゃうか)輪島市に属していて、渡り鳥の希少種も寄るらしくて、バードウオッチング愛好者や観光客も近年は多いと聞くが、ついこの前までは海士町(500年前ぐらいに九州から渡来したらしい)の人のものでした。別に脅すわけでもなく、法的規制に頼るでもなく、言うまでもなくあの島は彼ら彼女らのものだという印象はわたしだけではないと思う。
 海士町はほんの小さなブロックにあります。文字通り中上健次的な路地を彷彿とさせてくれます。身体能力に優れ(ローマ・メルボルンオリンピックにて銀メダリストを輩出)、小学生の時から煙草を吸ったりしていたり、中には秀才もいたが、総じて勉強嫌いで(高校を出た者がいじめられる)男も女も中学を卒業すれば海で飯を食べていく。私は気がついていなかったが、文字通り私のように輪島市民全員が彼ら彼女らを差別してきた。(わたしの印象に過ぎませんが、使用する方言が明らかに違うことや、マイノリティーであることは間違いのない事実です。)
 著者はイタリア人。最初はエスニックな裸の海女という興味からだったらしいが、いっしょに短期間寝食をともにして、もっと大きくておおらかなものを海女に感じ始める。本の口絵にウエットスーツが普及する前の薄い腰布以外は裸のままの肉感的写真が30枚近くあって、エロチックなだけではないものを感じた著者もうまく言い切れていないのですが、簡単に言葉にできるような人間の感覚では無いのでしょう。文化人類学的に日本人は元来裸に抵抗が無いというのとも違うな。それだけじゃない。
 著者がふるさとのシチリアの同じような小さな漁村を思い出すが、欧米人の目に止まるエスニックというのは、海士町のように被差別と自覚しながらも、何世代にもわたって生きてきた強さ、きままに生きているように見えて、外部には知られることのない厳格なしきたりを素直に忠実に生きてきた歴史を持つもののことを言うのだろう。自分からエスニックを演じるナイーブな日本人の美しい日本なんぞ、とうの昔に見限られてるのだ。
 羽咋市出身の妻はその海士町の厳格なしきたりの中の厄払いの儀式に大勢の海士町の33才とともに参加したのでした。ナイーブな差別者たる私からすればおまえすげえなあーと、感心するより手がないのでした。海士町で風呂屋の姉ちゃんとして名前が知れ渡っているのです。ナイーブに中央に土下座する輪島市で海士町がどれだけ多様性への扉を担保してきたかは輪島市民全員で共有すべきものと強く私自身は思う。
 今私の住んでいる三井地区だって明らかに使用する方言が違う。とりわけ与呂見地区は三井町の南端、能都町と境界を接する地点にありなおさら輪島市市街地育ちの私からするとイントネーションや発語速度が違う。小さな谷筋が違うだけで隣村とは世界に対する認識も違うのである。
 市街地育ちの私はお父ちゃんが門前町の秘境皆月出身で、お母ちゃんが能登島町出身のひ孫の間に生まれた、お父ちゃん側からは門前町系2世、(輪島市で3本指に入る商人だった)お母ちゃんのひいじいさんからみれば能登島町系4世なわけで、輪島市街はそうした2世、3世、4世のるつぼなわけです。市域全体の3パーセントの面積に全人口の半分近くが住む都市区域、文字通り都市なのです。
 輪島市という僻地は見方を変えれば農村地区を含めれば、その全体がマイノリティーの平和的共存という歴史を持つ、まれにみる多様性に満ちた場所なのだと私自身は強く思う。
                               
         blogger 2013年3月16日(更新:2021年11月22日)(最終更新2025年11月6日)
 




2013年11月29日

参禅体験。

JUSAI 123 : おじさんが、まず体験したいよ。
薪は拾ってきてタダなんだが、ストーブはスウェーデン製で21万円。


 明日は、三井小学校5,6年生の学年行事としての坐禅体験が、よろみ村の龍昌寺にて行われます。全員が来れば、児童が15人、ご父兄を加えて20数名と思われます。これまで龍昌寺には全国津々浦々からご客人が見えておられましたが、地元の輪島市から、このように大人数の方が来られるのはそうなかったことと思います。しかも、よろみ村という理想郷へやってくるのではなく、坐禅という仏教の中では、だれにでも知られている行を体験するために大人への入り口に立つ子供たちがおしかけるのです。

 村田住職はいつも、こうした参禅体験の際、自らの側からだけ一方的に話すことのできない方ですので、今回も車座になって子供たちやご父兄との双方向の語らいをされることでしょう。できれば、私としては、一方的に村田住職のお話を聞いてみたい気がしております。ご父兄も、まさか自分が坐禅のことや仏教のことを話すなんて思ってもいないような気がします。

 私もそうですが、禅僧に対しては、その悟った状態を私たちにもわかるように表現してほしいと、みなさん思ってらっしゃるのではないでしょうか。違うかな。もしかしたら、明日30分ほど坐って悟ってしまうやつが出ないとも言えないし、なんともわかりやすすぎる形ゆえに、いかようにも解釈させてくれる自由さが、結局、最後の最後に究極の不自由さをもたらす可能性を持っていると、坐禅に対して思考しているわけです。とにかく、坐れと言う道元禅師に対する懐疑が年々、深くなっていく私です。

 輪島からほとんど出たことのない私が、暮しているよろみ村をどこにも比較するところのない、新しい村と思いこもうとしてきたのですが、実は生まれ育ったところ、すなわち、ものごころがついたところ、すなわち、自意識が生まれる前に身体がすでに生まれていたところから一歩も出ていないコンプレックスの裏返しが、そのようなユートピア観を生んだのは間違いないようです。坐禅や仏教とは、そのような屈折の中でイメージを私に与えてくれていたのです。それらの解釈を洗練させることがいつしか、仏の教えと流れを一つにすると思っているのです。今でも!。そして、どのような思考も、つまりはあらゆる言葉を費やしても、必ず失敗するとわかっていても、直ちに止められないのが私なのです。

 私は私をすら代表できない

 私は力をこめるほど私が私から遠ざかっていく

 あからさまに、つねにそこにおるではないか

 私が。

 

2013年5月30日

バスケットマン&中学校準備委員会第2回。

1 インターハイ予選at kaga。

 バスケットマンの次男坊のインターハイ予選を夫婦して見に行ったのだった。次男坊は少し自意識強めゆえか、今までに一度もプレイを見せてくれなかったのだった。長男もバスケットマンだったが、彼は恥ずかしいけれどまあいいか、で観戦を許してくれたものだったが、次男坊は絶対に許してくれない雰囲気があった。
 しかし、知らない間に父の想像する彼ではなくなっているのかもしれない。最後の試合ぐらい、見せてくれとお願いすると、試合日程をメールしてくれた。(試合前日ではあったが)せっかくだからと細君も誘ってkanazawaの少し先hakkusan市までドライブしました。
 目立たぬようにと思っていたのだが、興奮してしまい、一人で頑張れ、絶対勝て、と絶叫してしまった。次男坊に目がいってしまうのはしょうがないのですが、チーム全体を応援しようと思いました。目の前に若い子供たちが私の大好きなwajimaと染められたユニフォームを着て一丸となって相手よりも多くのゴールを決めようと集中している様があるのです。ここでのwajimaは高校の名前でもあるし、地方公共団体の名前でもあるし、古くからの倭の島でもある。それだけたではない、今現在、寝起きし飯を食べ遊び学んでいる地球上の一点、昨日も立っていたし、明日も立っているであろう空想上の場所でもあるのです。
 試合は惜しくも負けました。3点差。残念でした。試合後次男坊とことばを交わしたいと思ったのですが、いやがるだろうなと思い、体育館の玄関脇のロビーで血圧を計っていると、目の前の階段から次男坊とゲームメークをしていたchihara君、それにバイプレーヤーのyachi君の3人が降りてきました。思わず、写真を撮らしてくれと近寄りました。「あの応援やめて」と冷静に言われました。他の二人がいや、あの応援はオッケーですと言って次男坊を笑ってたしなめてくれました。次男坊も笑っていたので、まあいいかですまされそうだと安心をしました。(今現在、恥ずかしさがこみ上げてきていますが)3人の写真を撮ると、「お父さんと二人で」と促してくれ、それに乗じて次男坊と肩をくんで写真に収まりました。「いいゲームを見せてくれてありがとう」と握手をしました。最後に次男坊も手を出してくれました。父親になって初めて、私は次男坊の保護者としての父親であるのだと強く思いました。
mattou sougou undoukouen。絶叫していてあせってスナップしました。wajima高校生写っておりません。バスケットマン3人の写真は私の秘蔵写真となりました。

2 中学校開校準備委員会 第2回。at noto。

 無料になった能登里山海道をwajimaに向かいました。いつものことながら、人や自動車の数とスピードがどんどん遅くなっていくのがわかります。wajima市街地をゆっくりと車間距離をあけて並ぶ車列の中で、思いました。kaga地区の子供たちと同じ土俵では、文武ともにもう勝てないのではないかと。都会の人たちと同じ政治システムを容認していては、子供たちだけではなく、大人が、否、大人の方こそ、ふるさとを維持できなくなるのではないか。情報量だけは都会と同じになっているが故に、かえって不自然な場所を作ってしまうのではないか。深く、冷静に、緻密に探し出せば膨大な文化遺産があるのに違いなく、その多くが金銭的価値に移行しにくいというだけで、もはやどのようなセンサーや最先端の道具を使っても探し出せない場所にもぐってしまうのではないか。少しぐらい貧乏でもゆっくりと、優しく暮らせる場所を自らの手で作り出すことは可能であると思うのです。そのための背骨として膨大な文化遺産が再び息吹き始めるのです。今現在も生きているものとして、生活として、多くの山や川や能登半島を取り囲む海とともに。
 何よりもその先鞭となる人間こそが、wajima市に生まれ、これから思春期を迎え、大人に飛翔するであろう13才以下の子供たちなのです。そして彼らの輪郭を縁取る要因としての教育があり、教育を行う場所としての学びやがあるのです。校歌や制服や細部の通学経路は2番目の議題であるのです。何よりも真っ先に準備しなければならないものは、私たち大人の思いなのです。今現在加齢を重ねている大人たちのふるさとをどうしたいのかという理念でもあり、具体的な目標であると思うのです。思考だけで(机上のアイディア)発展を目指す都市に肩を並べて競えるのは、優しい思い、強い信念、ほんとうに危機的なふるさとを次世代に渡そうとする遠いまなざししかないのです。
 グローバリゼーションという究極のローカリズムを生み育てるのは、愚直な思いという超個人的な、今ここに私は生きているという認識以外にはないと思うのです。そこにしか世界は育たないのです。似て非なるグローバリズムは、この視点が無いと、一信教的なイデオロギーに一瞬にして堕するのです。
 ほんとうに高校生たちは可愛らしかった。そんな彼らもほんの少し前まではお母さんにまとわりつき、ほんの少し先で大人になっているのである。一瞬も止まらないで動いているのである。
畳に、座布団では、ちと話しがat homeになりすぎるぞ。

2013年4月25日

平成25年度M小学校PTA総会。&懇親会。

歩いていける。

懇親会場へ。

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oosakaの伯父さんに会う。折口信夫の生誕の地ゆえか、日本の歴史(認識)の話で盛り上がる。伯父さんは浪速の商家に婿入りしてもまれたビジネスマンでもあったのだが、今古事記を読んでいるという。神武天皇の前の天皇の名前を父も知っているので、おかしいと思い、もしかして学校で学んだの?と尋ねると二人して「そう」とハモったのだった。明治維新政府(薩長土肥)によるねつ造(急造)の歴史とそれ以前から連綿と続く歴史との違いに思いを馳せたのだった。しかし、今もなお、続いている歴史ゆえに、微妙な認識の違いにも気付く。今、現在が把握できないのと同じぐらい過去は難しいのだ。そして未来も同様に。「わしは商売人やからな」(すでにネイティブoosaka弁)いえいえ、商売人というのは今ではほめ言葉なんです。エコ(ノミカル)なんです。と自分では標準語だと思っている魂のこもっていない日本語で答えたのだった。



2013年1月15日

Noto半島の古地図。

平成と昭和の大合併以前の能登半島の地図を見ていると落ち着く。まだ村がほとんどで、要所にポツンと町がかろうじてある。町以上の属性は、どんどん抽象性が増していく。意識の上でしか存在できないような砂上の楼閣である。国や世界なんていうものにたどり着く。まつりごとではなくて、政治を必要とする。
 與呂見と重々しい名前が奥能登のほぼど真ん中に書いてある。往時はゆりかごから墓場まであらゆる世代がそろっていて、小学校の分校まであった。今はどうだろう。一番若い人で70才をこえていて、祭りのみこしも神社を出ない。そしてjusaiが言うようなyoromi村なんてのも。あるようでない。ないようである。妄想上のものだから、常に定義付けをしないと消えてしまう。そして区切られ、隔絶されながらも、足下には確かに地面がある。大地などというしゃれたものじゃない。チベット民族まぼろしの王国シャンバラのように解脱の後にあるような神秘でもない。
 誰に区切られずとも確かにある村は、もはや無く。また、これからたどり着く小さな点もなく。ただここに立っているしかないことに無常の寂しさと永遠の矢印を見つけてうれしいんだと思う。
げんさんの薪山。垂直、水平きちんと出ている。

昭和11年ごろの尋常小学校の教科書についていた。

追記。

 用事で町に行ったら、コミュニティバスが走っていた。胴体には永井豪のマンガがデカデカと描かれてあった。jusaiが小学校低学年のころ、ハレンチ学園が全盛で、同級生や先輩たちと永井豪って輪島出身なんやてな。と、ひそひそ話していた。なぜ今頃になって美術館やら輪島市のIDに使うのだろう。なぜ、当時、支援しなかっとたのだろうか。やっぱりハレンチだぞ、バスが。

 

2012年11月13日

炭焼き。&アレ。

昨夜、寝る前に炭焼きのことで、急に不安になったのだった。乾いた薪(注、炭になる方ではなく、窯の圧力や温度を上げるための材)がほとんどなくて、大丈夫なのか。ネットやhataoさんのブログにも、そのことは書かれておらず、図書館から借りた参考書や、炭焼き委員会のファイルにも薪材の性質には何も書かれていない。もしかしたら、薪というからには、乾いているのが当然のことなのかと、愕然とする。
 翌朝、そのことをmura住職に尋ねたくて、朝のお勤めに行く。座禅と読経が終わって、掃除を始める前におそるおそる尋ねると、「そんなもん、乾いてなくてもぜんぜん大丈夫」と言われ有頂天になる。ついでに、炭窯の補修や窯をふさぐ時に使う土は、yoromiのどこかに採取できるものがありますかと尋ねると、やはり、「そんなもん、炭窯の足元になんぼでもあるやろ」ほんとにそうなのかと思うが、再び有頂天に。余談だがmurata住職ってなんて気楽な人なんだろうと思う。
 炭焼きは、20年で再生される雑木のあるところに窯を作り、土や泥を自動車で運んだり、遠くにある何かが不必要な仕事なんだなと、実感する。窯自体、粘土だもんな。昨夜、haginoさんにmii小学校の炭焼きでは、kenkouの森(多目的複合施設)近くの黄色い土に、亀裂防止のために砂をなんぼか混ぜたと聞いていたのだが。(haginoさんは建築家で、能登沖地震で壊れた土蔵の修理のためにNPO法人を立ち上げるなど、いわば土のプロでもある)
 昼過ぎに、小学校に行って、炭窯のまわりを見ると、昨年、補修に使った泥があったので、それを使って、asami先生に言われたように、指で押し込みながら、不安な箇所に泥を塗っていく。トトロのような炭窯の胴体をなでるようで気持ちがいい。体育館では、子供たちの遊ぶ声と、きゅっという靴音。休憩時間終了のチャイムの音がなつかしい。統合問題で揺れるmii中学校の広大なグラウンドのmii小学校側の片隅に炭窯は、あり、小中一貫の超特殊な学校を連想する。


泥あそびは楽しいぞ。
夜、統合協議会の5回目に行く。実は、この炭窯は、現教育長のyosioka氏が、校長先生だった時に、作りあげたもので、会のはじめに、「このようなすばらしいプロジェクトを成し遂げ、mii地区の象徴的なものともいえる炭焼きを児童、保護者、先生、みんなでやるようにするほどの方が、どうして安易に学校を消滅させて、市街地に大きな学校をつくろうとするのですか」と尋ねるが、ご返事はなかった。協議会に、いっしょに参加されているmii中学校の校長先生が、会議室に入るなり、「炭焼き、いよいよ始まりますね」と言う。見てたのかよ、と思う。
 しつこいけれども、炭焼きのエコさかげんには驚く。千枚田にキャンドルともすよりも、炭焼きで薪を燃せよ。と調子こいて、思うのであった。
 
 

2012年11月4日

中央コンプレックス。

小学校の炭窯の煙突が詰まっているのだが、構造的に詰まった煤をかきだせないようになっている。困った。掃除機の先を入れて少しづづ吸いとれとアドバイスを受ける。やってみるしかない。中止の可能性もある。
taniguchiさんと炭材を運ぶ。
午後、「たくましい奥能登っ子を育てる」ど題した会合に出る。講演もあり、春蘭の里というブランド化された「何もないところがいいところ」である地域(すごいあいまいな名前)で、女将をやっている方が壇上におられた。民宿が35件ほどある場所(いい加減な言い方)で、年間6000人近いお客さんが来るそうだ。システム化されていない、普通の町民と普通に触れ合うことができるので、リピーターがたくさん生まれて、口コミでも広がっている。県や国の支援、法律の改正、規制緩和などの追い風を受けて、ものすごく有名になったらしい。なんか、遠いな。そんな展望なんか開けないな。どうすればいいのか、皆目わからなくなってしまった。そんなことできやしない。
奥能登独自の教育で、中央にうまいこと子供たちを旅立たせる。終わり際に東京んに向けて飛行機が飛んで行った。於能登空港。
炭窯は島根方式なのだそうだ。なぜ、地元の方式をとらなかったのだろう。炭材を提供してくれたyoromiのnakada(本家)さんによれば、mii方式は煙突掃除がすこぶる楽なのだそうだ。ローカルなままでは立ちいかないようにできているのだろうか、地域は、この場所は。


yoromiから能登空港は近い。帰り道、田んぼからけむりがあがっていた。いいなあと思ったけれども、すごくさびしいと思った。


2012年10月29日

私文書の基本ですな。

日雇いその他で、一週間病院に行っていなかった。久しぶりの病院にて、痛みなく、まあ大丈夫だろうと思いながら、診察を待つ間、病院花だよりを見る。やはり、おもしろい。












お医者さんと面談するまでに、自分の病気やけがの症状に対して、自他からたくさんの情報を得ます。そして、いろいろ不安になったりします。しかし、診察室に入るとなんとも言えない安堵をいたします。完全に開きなおっているのでしょうか。まな板の上のこいみたいな感じになるからでしょうか。もうこの先には何も、誰もいないというあきらめのせいでしょうか。身内でもないのに、必死になって患部を触ってくれているお医者さんへの信頼でしょうか。 (時にははっきりと余命を宣告したりするのでしょう)小指の傷ぐらいで死ぬことは、絶対にないでしょうし。






2012年10月22日

無常です。

一人、村の古老がなくなられました。隣家も病院に入っておられます。yoromi角田に車いすの古老が佇んでおられました。
 
yoromi田んぼ街道。
小指、順調に回復。ホメオスタシスすごい。予想外の抜糸。幸い、全く、無痛。鼻歌で実家によると、留守。母、自作のポシェットの修理を頼んでいた。修理というより、全く違うバッグに変わっていた。ほんとに気に入っていたのに。もうあの形をかつぐことがなくなった。いきなりのお別れ。くどいようだが、ほんとに気に入っていた。


病院の花だよりを盗撮してまいりました。おもしろいのです。中身そのものもすばらしいのです。が、私がとても、気に入ったのは中身たる花への作成者の愛情そのものです。いかに、私(のあなた)がそれを気に入っているかということが、(あなたの)私をして読ませるのです。愛はだれも所有することができないのですね。人に読んでもらいたいものがあるのですね。それそのものに素直なんですね。