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左 櫛谷宗則。 右 村田和樹。 |
まさやさんが私に向ってストレートに言われます。「宗則さんを坊主であるとか、そういう風に見ることは違います。あくまでも、ぼくたちと同じなんです。仏法の話における言葉は、にしかわさんが意味づける言葉とは違うんです。むしろ言葉の出る瞬間、つまりは言葉そのものの前後における時間を見るということにおいて、ぼくたちと同じなんです」(意訳)
村田住職も言われます。「つくづく、仏法の話をする場が無いんだなあと思う」
あらかじめ、構築された私が身聞きし、意味づけする場に、宗則さんの言葉をすっぽりと当てはめていては、未来永劫、宗則さんの言葉は入ってこないのだ。
慈行さんが隣の席で言います。「言葉ってのは、ほんとうに、引っかかり安いものなんだ」
2年ごとに訪れる宗則さんの言葉がどんどん磨かれていくと、皆は言います。もう何度目でしょうか。あいかわらずの私に宗則さんは、またまた、同じ質問をされました。「なぜ小説を書くんですか」私はなんにもわかっていないんですと言いたいのに、そのことにしっくりする言葉が私の中にまるでない。龍昌寺の庫裏は、言葉が力を持つ。その力の前に、さらっとした読書などで得た私のボキャブラリーのおもちゃ箱の中を幼稚園児のようにしてがちゃがちゃと手をつっこんでも、何もない。とりわけ、私を楽しませるものが皆無である。
あれこれと思い悩む思いよりも、生命=いのち、今現在、この場所でも事実としてあるこのこれの方が、はるかに古い。いやはるかでなくてもいい。思いが生命のことをとやかく言うことの無力さはふつうに考えてもわかるはずなのに、驚くことはおろか、聞く耳すらないのである。積み重なってあるわけではなく、その都度、その都度なまなましい。
すかさず、まさやさんは言う。「ぼくがぼくのなまなましさに追いつけないんですよ」ムリなんですよ。だからこそなまなましいんですよ。
宗則さんの提唱。
「諸法の仏法なる時節」この一語で驚いていいんです。続くありありあり、断絶です。そしてなしなしなし、続いているんです。」庫裏に不怠(ふたい)という言葉が輝いておりました。これは怠けるなというよりも、怠けていられないということです。宗則さんが話すと、道元禅師もお釈迦様も身近です。おじいちゃんの何代か前という感じです。まるで言葉が宗則さんの身体を借りて降りてくるみたいでした。
追記。ここで書かれた言葉の時系列は私が編集したもので、各人の話した内容もかなり意訳いたしております。ですから、各人の意図とはまるで違う可能性が高いことをお断りしておきます。
道元禅師の歌が紹介されました。私としては以外でしたが、かなり多作であったとのこと。村田住職によれば、吉本隆明は3流と評価されているとのことです。
風もつながぬ
すておふね
月こそやは(夜半)の
さかりなりけり
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