2013年5月9日

田んぼに神秘など、断じて無い!。そして田んぼは普通の風景なのである。

10年以上前に亡くなった shinjiさんの詩に、おれのものはみんなのもの(どうにでもなれ)、みんなのものはおれのもの(おれをやるぞ)というのが、あって、すきなのです。
 田んぼに入っていると、所有がどうであれ、その田んぼをやっている人のものに、田んぼはなります。同時にそのことを感じる自分は、所有欲としての自分のという発想が遠くなります。相互依存性というか、縁起というか。自分単独では自分自身は成立しないと思うのです。田んぼが政治経済的な仕組みの中に取り込まれ、あまつさえ、通貨としての役割を近代まで担ってきたという意味を入れると尚更、複雑になりそうですが、ここからは想像ですが、やはり稲作に限らず、野にあった植物を、人為的に囲ったフィールドで育て、年々の積み重ねによって、よいものだけが、今残っているのは、間違いないことと思うので、自分のという感じは、そんなに古くからある感じじゃないなと。もちろん、角度を変えてみると、ちゃんと稲を結実させるという責任の上では、どうしても自分のという修飾はつかざるを得ない行為として農事はあるのですが。
 今現在の政治経済も、もとを辿れば田んぼに帰するのは事実です。にもかかわらず、ですが与呂見地区のような僻村(いい意味で、です)では田んぼの貸し借りに関しては、(貨幣)経済の仕組みの外にある行為としてあります。むろん、農地の貸借に関する法律も遠いものとしてあります。そのように、すきに田んぼをやらせてもらえることを、どんなに感謝しても感謝しきれないでおります。
 話があっちゃこっちゃいっちゃいました。何が言いたいか。うーmm。田んぼは見るのもやるのもええなあと言う感じです。疲れていやになったりもします。でもなんと、これまでの、とにもかくにもの日本の歴史をすべて埋め込んで目の前にあるのだなあと感じております。植物の生育という純粋生理学的問題もあって、いっしょうけんめい、考えていきたいと思っております。いや違うな。
水は高いところから低いところに流れるみたいなことを、ついついわすれて小難しいことを考えているうちに、10年もの長きにわたって、水が田んぼに入ってしまうのを、まあいいかですましてきてしまった田んぼがありまして、誰かが、その水を簡単に止めてくれました。おそらくsさんでしょう。水口の少し奥にもう一つ水口があったのです。つまりは、ふたをもう一つの水口にもすればよかっただけのことでした。kakosaki gatariが皆から、その言い方はないだろうと怒られ、たしなめられてきた言葉がありまして、それは「そんなもの、考えればわかるだろ」と「それがどうしたってい言うんですか?」です。もはや誰も怒ってくれなくなったのですが、田んぼをはじめとして、私の関わる全ての事柄がふつうに、ふつうにやればいいんだよと、優しく促してくれているのだと思います。田んぼに神秘など、断じて無い!。そして田んぼは普通の風景なのである。


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