ryushou寺前デカ田の裏山に道があります。5年ほど前に炭窯がつくられました。→わじゅカタルへ |
よく考えれば、古い言葉は自分にとっての他物として封印されているがゆえに、現行の意識がどうにかこうにか、古い書かれたモノを認識できるようになるということは、他文明では考えられないような出来事をもたらすのではないかという淡い希望です。なぜ、唐突にこのように言うかと言えば、yoromiのような僻村にて、連日田んぼに入っていると風景を描写しようとすると、あまり使えるような言葉がなく、(かえって、測量、土木系の専門用語が機能せざるを得ないという気がします)もしかしたら、長い文章を重ねることなく、たったの一語で目の前の瞬間を書きとめることができるのではないかと思えるのです。(かろうじて、芥川龍之介の中期の伝記的作品にその名残があるような気がします)
小学校から漢文をはじめとする難しい勉強をしておけばと思ったりします。良かれと思ってという明治時代の官僚の方々の努力がかえって、自分自身を表現する時に、その行為を阻害する働きをしていると思うのです。われわれ、現在に生きる者は明治時代以前を博物学的にとらえるより手立てが無いのです。
古い言葉は消えてしまってはいない。無用の長物としての厖大な古書を、今一度、じっくりと味わってみたい。
itayaAさん、朝の読経後、くりの窓を拭いておられます。 |
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