2013年2月7日

封建制と一言でくくれるものなのだろうか。


 「無私の日本人」という本がまわってきたので、読みました。肝煎(きもいり)という役職が出てきます。この本では庄屋のことだと断言されていますが、そうなのでしょうか。無私ということを哲学概念的に解説されているのかと期待をしたのですが、実際は水戸黄門や暴れん坊侍に出てくるような損ばっかりしているけれでも、天から愛されている人が出てきました。この本の中に出てくる農民(百姓とういことばは中国語の中ではふつうの人という意味らしい)の中には、入念にも、自分がこんなすばらしいことをやったことを絶対に自慢してはならないと遺言までしておられます。
 今でも、中年以後の人は「だれそれさんのきもいりで」と言うのですが、肝煎という役職があったということが驚きです。きもいりという役職が何かの保証を与える意味の名詞化がなされて、今ある。庄屋というのは、中央政権から与えらた職名という領域をはるかに超えて、村に君臨している。庄屋のだんなが、人格高潔で、徳の高い人ならば美しいドラマがあり、こずるい人なら、こずるいドラマが。いずれにしても、喜怒哀楽の全てはこのようなドラマから生じてきたのだなあと思われます。不覚にも、泣いてしまいました。
 さても、民主主義というのも、ヨーロッパのかたすみで、一つのドラマから生まれたものなのでしょうか。日本の無私から、果たして完全公開の合議=民主主義と言いうることができるのでしょうか。 柳田村歴史物かたりにも肝煎がたくさん登場します。カンセンという人の名前だと思って読んでいたのです。

無私の日本人/文藝春秋
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