2013年2月16日

第三者的機関。

 昨日、小学校に行く。文部科学省が体罰に関する緊急アンケートを全国の小中学校に実施させた。その結果を開封するのに立ち会うためである。今、流行の第三者によるチェックということであろう。学校と細かい行政システムは知らないが、文部科学省を頂点とする教育機関の外部ということで呼ばれたのだが、このようなありかた自体を決めて実施を求めたのが、当の文部科学省なのだから、この場所に外部はない。PTA会長たる私に、子供たちの教育環境への監視の目があれば、外部と言えないこともないが、私は漠然とした倫理感はあれども、個別の事象としての責任感はなく、どちらかと言えば、特別なことが起らないことを願うぐらいで、はなはだいいかげんな幽霊のようなもんです。
 日本銀行と政府との関係も、つくられたシステムの観点から見れば、互いが互いを自立した存在として干渉しあうことが大前提と聞いています。今回の新政権にて、デフレ脱却のために、通貨供給量を増やそうとして、総理大臣と日本銀行総裁が手を取り合っているさまは、日銀の総裁のさえない顔のせいもあってか、行政主導であることは誰が見ても宜ってもらえると思います。通貨が、ただの印にまで進化した現在において、独立した第三者を想定すること自体が、すでに想定外なのです。これ以上の文章の簡単化は、かえって、現在の状況を複雑化することにしかなりません。あるいは言語の限界にまで達したということでもありましょう。
 ようするに、簡単なことなのです。わかるかわからないかという問題でも無いですし。それぞれが、互いに、抽象化しあった世界を共有できるかどうかということです。私という個人感情は、見事にこうした簡単で無慈悲な世界に潤いをもたらしてくれます。本末転倒こそが世界誕生のはじまりなのです。このことは何千年経とうが、何万年経とうが変わらない。あやまちを犯さないでおこと思うことが、すでにあやまちなのではないか。
 …と思ってきたのだが、このような分析的な言葉は人の抽象性を輪郭づけているだけではないかと考えてもおります。考えることの原点に立ちたかったんです。思う存分に考えてみたかったのです。揺らがないものなど無いという事実の承認には、いまだにトゲがささっていて、集中できません。そうしている間にも肉体はどんどん老化のスピードを速めております。そのトゲがただちに健康に影響が無いにもかかわらず、気になって気になってしょうがないのです。この小さなトゲを自分で抜き取る。それは可能なことであると思えるのです。

追記

 1
 来年度のPTA会長の選考が難航している。毎年新5年生の保護者から選出するという規定なのだが、児童数が5人、みなが俺だけは余裕がないと言っている。みんなそうなんですからと言っても、いや、私の状況だけはこれまで人類が経験したことの無い余裕の無さなんですと言う。ふざけんじゃねえよ。とここで言っておきたい。総理大臣になりたい人が皆無の国はどうなるんだろうと、飛躍してしまった。ところで、PTAという組織はいったいどのような位置づけにあるのだろうかと考えると、答えのないという安心感のせいか、なんだかドローンとしちゃったのでした。先生は「私たちがタッチする問題じゃない」と言う。教育委員会は「言わなくてもわかるでしょう」とは絶対に言わない。定義付けは無限にあるようで、いまだにだれ一人実感した人はいないのではないだろうか。文章規定は確かにある。が、文章の中に肝心のことが決定されていない感じがする。法律とはそのようなものなのではあるのだが。主体そのもののことを定義づける主体が無いのである。主語は明確に冒頭で定義づけられているのにもかかわらず。

 2 
 近頃、本を読まずにネットでの文章ばかりを読んでいる。ふと、選ばれてもいない一般人の文章ばっかり読むと体によくないんじゃないかと思う。本というのは商品ですから、必ず何人かの検討を経ている。内容や文法などの不具合を修正した後で、読者は読んでいる。しかしネットの」文章は作者以外の検閲が入っていない。それに間違っていたらいつでも修正できる。隠語のような特殊記号だけでほとんどできあがっている世界はすでに、たくさんあるが、私が心配しているのは、微妙に間違っていて、微妙に合っている文章なのです。です。そして内容ではなく、文法なのです。ささいな心性の変化は、まっさきに旧来の文法(正しいとされる)にあらわれると思うのです。無邪気に文法があると思っているものが、知らないうちにそのような文法に囲い込まれてしまうことを危惧するのです。心性が文法から変えられてしまうのが、世界だと思うからです。私のブログも、素人の無責任でできあがっております。ご注意ください。って、おおげさな!

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