2012年11月25日

asami先生、ありがとうございました。

炭窯の中を想像するしか手がない。中の変化を表示するのは、かろうじてエントツから立ち上る煙の温度だけである。エントツを含めて全ての穴をふさいだ現在、いよいよ、想像だけが頼りである。酸素の供給を断たれて沈静に向かってはいるのだろうが、800℃近くの高温ゆえに、ほんのわずかな空気の漏れでも、すべてを燃やしつくして、来月初旬に、いよいよ、炭出しで内部を初めて、見た時に中が空洞であることもありうる。
 多くの人がかかわりました。トトロのような生き物のように炭窯はありました。窯の上に乗り、表面をなぜ、泥で補修し、また、窯の前面にて、ただじっと見つめるばかりのたくさんの時間がありました。
 しかし、まだ中は燃えております。思い出にひたっている時ではありません。今になって、全ての資料や図書館から借りた参考書を読んでおります。ふんとに内容が素直に入ってまいります。炭焼き行事は、最後の大切な仕事が残っております。これまでの記録を整理して、今回の炭焼きの経過を、原木の調達段階から記録しなければと思っております。個人的な感動が強かったので、わかりにくいものになりそうな気もします。
 武田泰淳の「司馬遷」という小説がありまして、司馬遷が、その時、その王朝で何が起ったのかを記録する際の基準がかなり特殊であることが書かれてあります。これはとても大切だろうということが省かれ、どうでもいい立場の人のどうでもいい灌漑が書かれてもあるそうなのだ。いかにして、後世の人が読んだ時に、正確に、何が起ったのかを理解するための策なのだそうだ。でもわかるような気がします。(ほとんどわからないけど)司馬遷自身の恣意性を絶対に省こうとしたのだろうと思います。
 mii小学校の炭焼き資料を読んでいると、炭焼きの成功度合いに反比例して、資料だけは華美になっている。ほとんど炭が取れていない年の温度記録表は、エクセルの表示機能をフル稼働してあります。反対に、やる気と能力の豊富なPTAや先生のいた年代は、非常に記録が事務的であり、手書きの温度曲線であります。しかし、とれた炭の量はすごい。同じ窯を前にして、年代によって、その活動の温度が違う。


 今回は、正直言って、asami先生なしには考えられませんでした。この場を借りて、改めてお礼を申し上げます。同じ炭窯のめしを食うではないですが、いろいろ雑談に花が咲きました。なんといっても驚いたのは先生が野球部であったことであります。jusaiよりも3つ下ですから、そんなに離れていない。jusaiはあまりにも下手なので高校1年で辞めたのですから、先輩という感じはないのですが、ふと、いろいろ思い出しました。学年によって優劣が生じるのは、しょうがないのですが、jusaiの年代は黄金世代に挟まれて無残なものでした。1年上の先輩にとても厳しい方がおられて、jusaiが中学校の主将になった時にその姿勢だけをまねて、けつバットなるものを後輩にしたことがあります。今でも怖かったという2年年下の方がおられるそうで、3年下のasami先生がおっしゃったこと、「ああ、けつバットはよくやられました。その流れでやられたんですね」ああ不用意に先輩から続く雰囲気を、そのまま継承してはいかんなあと強く思った次第です。

今日はPTA行事にて、輪島市教育委員会主催の発表会がありました。会の前に、新聞記者を招いて、中学校統合見直しの署名開始を有志で発表しました。明日、載るでしょう。ずっと、校長先生と雑談をしていました。PTA会長さんやあ、炭焼き行事、来年どうする?なんだか、おれの一存にかかっているようになってしまった。炭焼きは。(炭窯を作ったのは現、教育長!)



記者発表。左から二人目 haginoさん。このムーブメントのけん引役。

資料。 左  教育委員会(荒い)んなもん、ネットからコピペでもしたんかい。  右 haginoさん(精密)

 
追記

 教育委員会発表会にて、わが母校河井小学校、松稜中学校、輪島高校の研究発表があったのだが、輪島高校の先生は、jusaiがいびって野球部をやめさせた方でした。彼は忘れたかもしれないが、私は忘れてはいない。冬場のランニングで、あまりにも遅いので、引っ張って「ほらわれ、はよ走らんかい」とやったのであった。その次の日やめたのだ。彼が、統合問題にふれて、輪島高校と輪島実業高校の統合はうまくいっているので、中学校も大丈夫みたいな言い方をしやがった。いまだに、うそばっかり言うとるんかいと思ったのだった。ちょっとひがんでるかな。













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