2012年6月10日

コロガシはお休み。ワタシは休みなし。

早苗  うるち81枚  モチ5枚 計86枚余る。これらは根が張った土として重宝する。
使わなかった早苗はアゼが低く、弱い箇所を補強するため、ばばなき田2とピアノ田向いとTsyouten裏1に使用。


記事を見る限りは、連日田んぼだけをやっているかのようです。いったん、田んぼに早苗が植えられた限りは、そのことが頭にあるのは当然でありますから、その意味では田んぼとともに生活しているという意味において、連日田んぼをやっていると言ってもいい。
しかし私が田んぼをやっているという文法上の誓約ほどに、田んぼに責任を持たなければならないような主体があるわけではありません。水をたたえて、早苗が育ってもらう環境に責任が伴うのは当然ですが、そうした私という主体がありえるのは、田んぼから離れてあると思えている限りにおいて、現れる架空の存在を前提とした時に限ります。おとといの未明より断続的に降り続いている雨量を計算しながら、今現在田んぼの水位はこれくらいだろうなあと、35枚の田んぼそれぞれを思い描いているこの時をも、田んぼをやっているという時間の中に加えることが可能なのならば、種籾の塩水選よりここまで、一度たりとも田んぼから離れたことはありません。田んぼの水位の想像と現実との差の大小によって、農民の質の上下があるように思います。jusaiはここのところが、かなり苦手であります。ですから、実際に田んぼを回って、当該の田んぼを目にしてあちゃちゃという場面が少なからずあって、こうして、PCを触っているあいだもぼんやりとした不安があります。
コロガシのために実際に田んぼに入ると、こうしたやりくりがあっさりと消えてしまいます。そして、私は現象と溶け合い、私とは何という疑問が浮かぶ余地がなくなります。そして、風に揺れたりする早苗たちはそれぞれが、早苗という漠然としたカテゴライズから自立し、一つ一つが私という現象に呼応する。傍から見れば、何気ない田んぼの風景でも、中から見る風景は質を全く異にしている。なぜ、田んぼに入ると安心できるのかという疑問など湧きようがないほど、私は田んぼにて遊んでいる。
アゼに上がって、ぐるりと田んぼを回り、断続的に並んでいるyoromiの田んぼから田んぼへと歩いて移動する時、平成の与呂見地区という客観的データのもとに歩いている市民ではなくて、yoromi人として、弥生から、さらにこの時より千年後を簡単に移動することができる。そしてあまりにもあたりまえ過ぎるが故に全く聞こえていなかった用水や小川の水流を感じ取る。贅沢に途切れることなく流れ続けている水はふわふわしたそのような感情をも流しさる。いずれは、必ず大海に。
sakata4枚田からyoromi old villageへ戻ってきて、さらにyoromi田んぼ街道を上って苗田街道を終点とするタマワリから帰ってきて、安心するのはほんの一瞬であります。実際に田んぼを回って、よしと思った瞬間から再び、空想の田んぼにて、私という思考を持ってして、田んぼをまわります。そして、再びタマワリをする。そんな連続が7月後半の水抜きまで、文字通り連続いたします。北陸も一昨日、梅雨入りいたしましたから、不意の雨という気象条件も加わり、タマワリは空想と現実の間を行ったり来たりいたします。もしも疲れたならば、癒してくれるのは昨日とは確実に姿を変えている早苗もしくは成苗の風景であります。昨日と今日でどう違うかを、その通りに見れるかどうかに観察はかかっております。いまだかつて、そのように正確に見たことがないので、今年こそは前後というあいまいな情景ではなくて、不連続という違いそのものを見とることができるように、強く、念じる次第であります。
世界などというものを考えれば考えるほど遠ざかるような気がしております。そうではなくて、早苗の成長というバロメーターしか持たない田んぼそのものを連日ただ、歩くことによって、あるいは疲れ果てて、いやになるくらいにアゼをぐるりとただ回ることによって現れるだろう私という現象と仲良くなりたい。



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