毎朝、6時20分ぐらいから坐禅をして、お経をあげて、寺の本堂や庫裏を水ぶきします。今日は掃除の時けっこう強めの雨がふってきました。気温も低く、今日の田んぼ仕事を中止にしました。田植え後の雑草取り以外は基本的に雨が降ったら休みとなります。休みと決ったとたんにうれしくなってしまうのは、やっぱり田んぼ仕事がいやなのだろうか。仕事だと思うとやっぱりいやなのです。
いつもそうです。田んぼに入るまでは、まだまだたくさん田んぼがあるなあと思い、今後の予定を考えると憂鬱だったりするのです。不思議と田んぼに入って鍬を動かしはじめて、しばらく経つとそんなことを一切忘れています。田んぼが好きなのではなく、田んぼにいる自分のことを好きなのかもしれない。長い歴史的な習慣の中にいるみたいな感じがいいのです。
腹がへると極端に機嫌の悪くなる性質なので午後2時50分ぐらいの時が自分の危険ゾーンであります。疲れた体と同じ事を反復するイライラに、アゼ際の根深い雑草やひょこんと現れるオケラにあたったりしています。そして夕方になると家に帰れる期待に再びちょっと元気になります。幼稚なのだなあと思います。
朝の坐禅も本当は50分坐らねばと思っているのに、愚図で40分になってしまいます。3年ほど前までは坐禅どころか、朝課(お経をよむ)にもほとんど参加しませんでした。坐り始めた時、住職に習慣みたいな感じで坐ってもいいですかと尋ねたら、それでいいと言われた記憶があるのですが、今はとにかく、習慣というか毎朝、この時間に何も考えなくてもいつの間にか坐っているみたいな感じで、癖にしたいと思いながら、本堂に向かっています。
厳しい修行道場では8日間坐ったままで寝食をするらしいですが、龍昌寺は日曜日がお休みで、一日中、何回も坐禅を繰り返すのは毎月1日だけであります。最近は8日間も足をくんだままなんか、お前にできるか?と問いかけることが多いです。
さて、今日は肥えくみや野菜の苗の定植をやりました。思ったほど雨は降らず、田んぼに出かけて、昨日刈り残したところを草刈しました。好きで好きでたまらない、やりたくてやりたくてたまらないからやっているわけでは、全くない田んぼや坐禅ですが、癖になったらいいなあと思っています。画像が無いと更新もままならなくなりそうなので、デジカメを注文しました。田んぼに落としても大丈夫なようにほぼ完全防水のものを探しました。(思ったより安かったのです)きっと田んぼの写真のアングルも変わると思っているのですが。より土と水に近づくのではないかと。道具のことを心配しなくていいというのは、あまりにもあたりまえの大原則のように思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿