なんなのだろうか。この寂しさは。3日間とはいえ大勢の方々がいたのに、今はカエルが鳴いているばかりなのです。覚えている言葉は自分にとって大切なのでありましょうが、覚えていない言葉も確かにあるはずで、それらはもう思い出すこともないし、最初から覚えられないものとしてあったような気もします。自分の琴線に触れたり、好みにあった言葉は簡単にすり込まれますからいつでも好きな時に反芻することができますが、自分にとって痛い言葉は思い出すのがいやなのにもかかわらず、常にBGMのようにして視野の背景を占めたりします。それを見たいんだけどなあと思うと見れずに、そんなもの見たくもないんだけどなあは記憶を取り戻す前に、すでに書き言葉のようにして背景を流れて行きます。
第3の道はちょっと古い言い方なのですが、上記の2種類の自分が出会った言葉のどちらでもない言葉があるみたいな感覚があります。自分の日常性がはぎとられてしまいそうになり、しかも詰め将棋のように逃げ場も奪われる瞬間にそうした言葉は輝く。そしてなにより重要なことはそうした言葉を口にしたその人間の名前や内面の属性などの個人情報っぽいものは全くここでは関係がない。
きっと拒否しようが、肯定しようがおかまいなしに自分の中に入ってしまっているのだろうなあと想像しています。寂しさはきっとその代償なのかなあと。あなたはあなたで苦しむより仕方がない。
田んぼまわりややらなきゃならないものが結構集中する季節に入ります。あまり疲れないように自分を持っていこうと思っております。ラクになる段取りを真剣に考えられればと思っております。
耳や口がことばを育てるのではなくて、ことばが耳や口を開いていくということもありなのかなと。自分にとって痛いことばを言う人のなんとありがたいことかと思います。ありがとう。
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