もう5月です。4月の出だしは寒かった。8月に雪が降ってもおかしくないと思うほど。にもかかわらず、最近の暑さはどうだ。体もそうですが、意識もついていけない。
 |
| 雪のトンネル。yoromi村参道南側。 |
苗床や田んぼにとってはありがたい気候ではあります。今日、田んぼに水をいれるべく田まわりをしてきました。この時期は雪解け水のおかげで用水はゆとりがあります。まずはsakata地区の4枚へ。sakata地区は舗装された林道(yoromi highway)を5キロほどまいります。ひとけのあまり感じられない地区のはずれにあります。田んぼの用水の堰が500メートルほど離れた小川なのでそうじがたいへんです。縁掘り(えほり)といって、村々の春一番の共同作業がありますが、一人でやるのはさびしいものです。長い。ついついめんどくさくなって顔を上げると村の神社が目に入ります。田んぼというのは不思議な不動産です。私たちはすべての田んぼを人から借りてやっているのですが、自分たちの都合でめんどくさいものはやめたり、あるいは突然田んぼをやらなくなったからと頼まれてやったりと別に契約書などなしに口やくそくで田んぼがなされます。家にもよるのでしょうが、都市部はともかく、山奥の村では田んぼを自分のものだという感覚が薄いのではないでしょうか。誰がやってもいいけれども先祖代々やってきた風景が途絶えることを最も嫌がる方が多いのではないかと思います。
 |
| 自分のものでは、絶対にない場所ということが、重要なことなのではないか。神社も。 |
さて、田んぼというのは外から見るのと、実際に中に入って見るのとでは大きさが違います。田んぼに限らず、自分が持ち主となった場所というのはとても大きく感じます。不動産としての所有ではなくて、自分が耕作するという意味で自分のという言葉を使いました。自分がやらない田んぼは自分のものではないのです。少々ケチクサイ考えなのですが。それにしても、sakata地区の4枚田んぼをやっているから(すなわち自分のものと考えている)小川から田んぼまでの長い用水でうろちょろしていても不審者あつかいされない幸せを感じました。誰かがどこかから見ているという感覚は消えませんが、もう15年近くやっている田んぼですから(jusaiがyoromiに来てから)どこかでここらへんは自分の場所だと思わせてもらっています。時折見上げる神社におわす神様はどう思っているかはわかりませんが。
 |
| 堰。 |
 |
| 用水。水はすぐにはやってこない。 |
 |
| 水よぉー。(sakata4枚田1) |
あと、40枚近くある田んぼ(大きくても小さくても1枚は1枚)にて水尻(排水口)を止めて、水口から水を入れるという超シンプルな仕事を繰り返します。それぞれの田んぼの環境は千差万別ですが、基本的に同じことをくりかえすだけであります。yoromiや周辺ではいったい何回このことがくりかえされてきたのだろうかと想像することは、同時にあと何回このことをくりかえせるのだろうかという想像とちょうどつりあって、今私が田んぼに立っていることの奇跡を感じさせてくれる瞬間が訪れます。その瞬間に私という小さな点のような呼称が入る隙などまったくありません。そして水が流れる音や、カエルの合唱や淡い新緑や、能登空港から離陸した旅客機の轟音や、その他、五感で感じ取れるだけのものが一つになる時があっという間に過ぎ去って行きます。
0 件のコメント:
コメントを投稿