2012年2月26日

わからないと知ってはじめて知ることの可能性が生じる。

プロの作家のすごいところは、人とは違う特別なことを書けることではなくて、あたかも普通の人がいるかのような普通の世界を書けることだと思う。何かを書こうとするド素人は自分にしかわからないことを書こうとするするものが多く、文章そのものが普通ではなくなっている。では普通の文章なるものはあるのか?普通の世界を普通の文章で書くことに何の意味があるのかと思うが、残念ながら自分にはわからない。自分というものが特別であることを疑えない私には一人のシンパシーも知人もなく、最低限の普通もありえない。特別な状態が普通なんだとも思うが、これは単なるレトリックというやつだろう。どうして、普通をわかったように普通と言えるのか。書き言葉そのものが普通の素地を生み出しているとしか思えない。いいとかわるいとかの問題ではなくて、書かれたものがあるということに疑いをいだいた書かれたものなどあるのだろうかと尋ねたい。唯一生きることそのものが苦であるとゴータマシッタルダが言ったと書かれたものに可能性を感じるのは偶然でも、出版社の宣伝によるのでもなくて、求めざるをえない事情が私の中にあるのだ。作家には草野球や、草芸術家というジャンルが存在しないと思うからプロ作家という言い方をしたのだが、彼らの書いたものの中に出てくる登場人物がどんなに異常な存在であったとしても普通に読めるのは作家の力なのだろうか、それとも読者の力なのだろうか。あるいはほんとうに実在するほんものの世界の力なのだろうか。どんどんわからなくなっていく。

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