2012年2月20日

めんどくさい私です。

 しつこく、こだわっているものはなんだろうか。何かを考えようとした時にまっさきに考えられていたかのようにそこにあるのに、いつでもそれとともにあるのにもかかわらず考えることをやめることができないもの。かんたんに口でそのままを言えばそれでいいのだろうが、かんたんにはできない。
今日も雪かきをしていた。雪だらけの中で雪のない景色を思う。しつこくこだわっていたようでいて、いろいろ考えているのだろう。同じ景色を見続けられないように、同じことは考えられないようになっているのだろうか。ほんとうにいやならば考えないのではないだろうか。言葉とは何なんだろうということにしつこくこだわっているのだが、言葉とはと問う時すでに言葉と明確に指し示している。昨晩風邪の治りがけに読んだ資本論の商品の説明で亜麻布と上着との間に横たわる=(イコール)が、くせものでこの記号は右と左に現実にはありえないものを並べることができるということがいつもわからなくてうんじゃらもんじゃらするのだが、わかるようでいて中々うんといえない。むずかしくてちんぷんかんぷんのフーコーの「言葉と物」の序説にも似たような話が載っていてことあるごとに何度も読み返すのだがわかりそうでいてわからない。わかったような気になっても再び読むときには違う文章を読んでいるかのように又一からやりなおさなければならない。その都度その都度わからないといけない。
中上健次の文章も一文と一文のつながりを追っていては全体が把握できそうにもなく、又全体から俯瞰しようにも一つの文章自体が意味づけを迫ってきているようで読んでて少しいやになるのだが、文庫本を手放さないのだからきっと好きなのだろうと思っている。中上健次は大好きなのだが、まだ「熊野集」しか読んでいない。正直言ってめんどうくさくもあるのだ。読む力がないのだろうが、強がらせてもらえるのならば、これらのわからない本たちはおれにこんなふうに読んで欲しいんだろうという気持ちが強いせいでもある。そこでは自分というものがかなり邪魔になっている。で、ほんとうにこだわっているつもりなのは、私とはという問いなのだ。でも問うておきながら、ここでもやはり、明確に私と言わされているのがいやだ。(私がおれでも、これでもかまわないのだが、一瞬にして言葉の問題にすりかわってしまうのもいやなのだが)
うんざりするくらいの雪をどかさないといけない時にうんざりを肯定も否定もせずに体が動いていることを感じる時に、ほんの一瞬、わからないと本当に言える時がやって来るような気になる時がある。でも一瞬の後に私は私を、そうそれでいいんだと私に言って全てを台無しにしている。ほとんど病気だ。

0 件のコメント:

コメントを投稿