2012年2月26日

勉強会二回目初日。

今冬二回目の勉強会でした。絶対的な神様のことなど何も教えてくれない仏教ですから阿弥陀様を神様の異なった形をしたものぐらいに思ってしまっているものからすれば、西洋人と同様の私がなければならないと思ってしまている私からすれば、二重三重にややこしくなった自意識をもって絶対他者を考えてしまいます。考えるということはまず、最初に二重三重に重なっているものをはぎとるためにいっそう、絶対他者が遠くなります。でもこの遠さが時間的空間的な距離ではなくて、ものすごく抽象的な距離となります。あらゆる解釈を超えて、現実にものを考えようとする私はここにありますが、表現のしようもないものとして抽象度だけが巨大になってしまっています。よかれと思って考えることそのものが、複雑さを高めます。自分が自分のことを考える時は特にややこしい。
 ほんとうはものすごく簡単なことなのではないかと、勉強会で説法をしてくれる人に気づかされる瞬間が何度もありました。今日の佐野明弘さんの話では気づかされるということ自体ではなくて、そのことはむずかしいというより絶対に不可能なことなのであるということまで気づかされたように思いました。わかる可能性などないということを断言しているのは佐野明弘さんではなくて私自身の中の私自身から遠い遠いところにある、言葉で抽象するより手立てのないものとしてありますが、こうしたこともどこか感情的なイメージに過ぎないと思うとむちゃくちゃ恥ずかしいものとして自分があることを痛感させられます。自分が自分だと思っていることによって自分があることを知らないという恥ずかしさであります。自分が他者に対して堂々と恥ずかしがっているということがとても恥ずかしいことだったのだなあと思います。自分が恥ずかしい存在なのではなく恥ずかしさそのものが自分であったのだ。やっぱり何が言いたいのかわからなくなってしまいました。

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