2012年2月6日

屋根雪をおろす。

 一日中屋根雪をよけていた。最初は午前中ぐらいかなあと思いはじめる。いつだって終ったところから仕事を考える。力はまだ余っている。ふんこれくらいなんてものだ。がママさんダンプをうまく使えない。雪が予想よりぶあつくて、小屋が近くに隣接していて捨てるところもなくなったりして、思うように仕事がすすまない。考えている。いつのまにか意欲もなくなってきてめんどくささだけが先に立っている。それでも考えている。どうにかしようとがんばっている。腰や腕を休ませて、まわりを見渡せば雪だらけである。ぐちゃぐちゃになりながらも体だけは動いている。自分意思と仕事が一致することの少なさに驚くひまもなく体だけは雪を完遂しようとしている。息もあがり、腕力も衰えたなあと思うが、唯一この思いだけはまるで17歳の時と変わっていない。という思い自体が老化したかどうかは、この思いではわからない。
テレビで写真のように絵を描く人が描いた絵と写真を見分けるという番組をやっていたのだが、やってみれば、熟達の人が見分けることができなかった。みたいな感じで自分だからこそ、自分ではわからない部分を持っている。もはやそれは現実でもあるし空想でもあるし、又その両方でもないし、なんとも名づけることすら困難である。そのそれ、このこれと言っても、現代ではもはや詩にもならないただの音韻である。
何を言っているのかがわからなくなってもこうして文章を書き続けるようにして、又雪かきも終ってしまいました。ほんとにわからないということ、自分の意志が通じないものを絶えず抱えながらも人は日常生活を、毎日、毎日完遂している。自分の意志で何かをやるということは不可能なのではないか。人が動くということはものすごい奇跡的なことなのではないか。何かをやろうという意思と何かをしたという記憶の間で体が勝手に動いているのではないか。
わかるということのすぐ近くで闇が広がり、わからないといういことのすぐ近くで光が広がっているような気がする。わからないまま、わからないもの同士が同じ空気と時間を共有するということのありがたさを素直に感じていきたい。

カメラを持つのがめんどくさくて→わじゅさんのブログより拝借。http://blog.goo.ne.jp/wajumurata/e/1c96c0a8642a419bffdbe2140a24a339
一枚目の画像がJUSAIです。

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