2012年1月13日

方言は美しい音楽

自民党の麻生太郎氏が総理大臣になる前、その発言力を増していたころにラジオから彼の声が聞こえてきた。「地方自体の首長さんには経営者として職務をしてほしい」と言った。明らかに経営者のようにではなくて、経営者のほんものとして存在してほしいと言っていた。各自治体が競ってわが自治体はいかにすばらしいかというコマーシャル活動がさかんになってきた。わが自治体はいかにすばらしいものを持っているかを探し始めた自治体は先人達の血と汗を一言で表すようなコピーを真剣になって考えているようだ。
私がもっとも嫌うのは方言をそのままひらがなで表記した一節だ。方言とは先人達の血をと汗の結晶が現在を生きる我々の場所で花開き続けるナマモノなのであって、どのような書き言葉でもそれそのものを表記したことにはならない貴重な記録そのものなのである。我々が民俗学的にあるいは博物学的に収集できるようなものなのではなく、我々そのものがそれによって表現され続けている、あまりにも具体的で本物すぎるが故に表現するという傲慢な行為をゆるさぬ聖域に存在するものなのである。
方言を一字一句そのまま未来に持っていこうと言いたいのではなくて、自らの言語空間の輪郭を破壊するくらいの覚悟を持たなければ未来は永遠に変わらないと言いたいのだ。方言をそのまま商品のコピーやネーミングに使用することは自らの出自があからさまになってしまうというくらいの覚悟がいる行為なのだ。
資本主義に対等に向かうことのできる制度が消滅してしまった現在、資本主義を外から客観的に見ることのできる場所がないという事実を忘れないでいたい。そして、方言の生きている空間がいいのか悪いのかという話しの前にとにもかくにも一度たりとも途絶えていない歴史そのものがあって現在の自分が立っている場所そのものを探っていきたい。
暗いが、モノトーンではない。色を持つ空。
自らが生きる場所を自らが作っていくこと。その自らには何万年もの歴史を重ねてきた場所そのものが覆いかぶさっていること。名前が問題なのではなく、問題が問題なのだ。

与呂見地区中心部。音だけではなく、色も吸収してしまう積雪であります。


本気でやってください。


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