2012年1月22日

悩みが大きいというのはラッキーなことなのではないか。

櫛谷宗則さんのお話を聞きました。道元禅師の著された正法眼蔵を元に不可思議な比喩であふれている仏法の文章を解いてくださいました。冬の勉強会と称して、何度もくりかえし聞いてきたのですが、わかりそうになればなるほどそうではないと思われてきます。どんどん順調にわからなくなっていきます。師のお話はそれでいいのだ、それでいいのだと言ってくれているようで元気が出てきます。どんどん時は流れていきます。釈尊もいつのまにか2500年ほど前の人になってしまいましたが、たかだか2500年かと思えます。わからなくていいのだが、わからないままでよいわけがないと思います。ひとえに私自身の意思だけを自分自身で問うより他ありません。
思うにその問いの大きさに応じてしか理解できないのではないでしょうか。そして問いは苦悩が深ければ深いほど大きくなるように思います。同じ言葉が未来には違う深さを持つのだと思いました。自分の具合の悪さが世界一であると思いたいのですが、苦悩が大きいがゆえにその苦悩が見えない人もいるのだと想像されました。
自分の得ばかり考えるというのはほんとうに醜いことなのではないかと思えました。ただ、その都度
その都度であります。

櫛谷宗則禅師(画像中央)


feed 龍昌寺 住職 村田和樹

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