2012年1月21日

マリオへ。(マリオのパンへ)

人見知りが強いので、ファーストネームやニックネームで呼んだりする友人がほとんどいない。又ニックネームで呼ばれたりするととても大切な自分の内面の中に入り込まれたようで少し苦しい。自分という内面の確かな輪郭は宇宙そのものの輪郭よりも大きくて確かなもののように思っている。自分の命などどうでもいいと思えるのに、この内面だけは触らないでくれと叫んだりする。友人というのは自分の内面を踏みにじらない限りにおいて許される。
マリオはこうした妄想を許さなかった。目を開けたら彼がいた。そして母国語ではない日本語で「気持ちをください」と言った。必死になって自分の気持ちを探したが見当たらず、めんどくせえ人だなあと思ったが、それは言葉にならなかった。気持ちってほんとうにあるのかもしれない。
マリオはパンを焼いて売っている。そのパンをたまにくれる。ますますマリオがわからなくなる。でもますますパンは好きになる。何が、なぜおいしいのだろうと考えるとますますわからなくなる。マリオとマリオのパンとの境目があいまいになる。自信をもっていいと言える数少ないものなのだが、それをそのまま説明しようとすると母国語であるにもかかわらずうまく言えない。(なぜだかおいしいだけでは済ませたくない)
これが気持ちなのかとふと思うとここに自分がいる。同時にマリオもここにいる。そしてパンがある。
少し心苦しいのだがマリオはマリオと呼び捨てにするしか手がないのであった。

marioそのもの。




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