2012年1月23日

勉強会二日目。

仕事で今回の勉強会に参加できなかった妻に「正法眼蔵の勉強会だったんでしょ」と聞かれてうんと言うも、「どんなんだった」と聞かれては何と答えたらいいか迷う。正法眼蔵の中身を説明しようにも話し始めるとっかかりもわからない。確かに話を聞いてはいたが、はて一体誰がこの話を理解しようとしているのかがわからなくなる。確かに聞いたのは私だから私でいいのだが、どこぞの私なのかと考えてしまい、まあようするに逃げ続けたいのだなとしめくくるも、どこに逃げるのかと考えると再びわからなくなる。おれみたいなレベルの人間の理解に応じた先入観を植え付けることにしかならないから、ほんとうは直接ああいいうふうにちゃんと話せるレベルのお坊さんから直接聞いたほうがいいに決っていると言うもそれでもふんづまりでもやもやするだけ。確かにこういうことが書いてあるという納得のようなものも感じた瞬間も多々あったのだが、そのときそのときであって、今それを思い出して言ってもなあとお茶を濁す。そもそも仏典を読むという表現じたいがしっくりこない。では味わう。違う違う。そんなしゃれた言い方を言う場に自分などいないとやはり逃げたい。が魅かれる。まだ出会ってもいないのではないかとさらに逃げ続ける。いったいどこからどこへ。又明日も逃げるのか。
内容を理解すると消えてしまう文章というのがあるのだとしたら、それを理解したものは消えてしまうのではないか。永遠に同語反復をくりかえすのではないか。それを自意識と呼ぶのではないか。自意識とは永遠を自ら仮定した場に閉じ込められた空虚なのではないか。ないものを消すことはできない。もともと無いと言ってしまってはすでにあるものになってしまっているではないか。
そして、正法眼蔵だけは何百年経っても残っていて、目の前にあるのだった。
正法眼蔵の勉強会。総勢16人参加。

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