2011年5月20日

水をためる


田植えを明後日にひかえて、田まわりをしてきました。この時期の理想は地面が見えるか見えないかぐらいの水位です。なにゆえ、縄文晩期の人々が畦に木の杭を隙間なく埋め込んで水をためようと苦心したのかは稲のために水を温めるためだったろうと思います。そのDNAは現代にまでそのままの形で伝わっていて、用水路を流れる水が、まだ冷たいこの時期に田んぼにたまっている水を触るとまるで、自分の手がおたまじゃくしになったように気持ちがいいのです。オタマジャクシの手は稲の半身といってもいいと思います。
田んぼによって保水性に差があり、田んぼごとに一喜一憂しています。実際は保水性がずば抜けている田んぼでも取水口以外から、例えば棚田の上の田んぼからジワジワと漏れていたりしますし、すぐに水位が下がってしまう田んぼでも、(20年ほど前のことだから時効だと思いますが)暗渠排水といって、土中深くに排水性をよくするために埋められた配水管の地上での排水口のフタに気が付かずに耕作していたということもありますし、田んぼ一個一個での評価はできません。人工的な施設であることは間違いないのですが、まわりの環境から隔絶してその一枚の田んぼがあるわけではないのです。物理的な自然条件としても、又我田引水の故事をもちだすまでもなく社会的条件としても単独で存在するわけではないのです。
とにかく、田んぼは、能登半島の当地ですら千年単位で続けられてきたと思います。(もう少し新しいかな)取水口から水を入れて、排水溝をせき止めて土をトロトロに耕運すると水が漏れにくくなることを縄文晩期の稲作り創世記から伝承されてきていることにウルウルしてしまいます。遠い祖先を思い描くことと同時に時間が消えて縄文晩期はつい昨日のことのように思えます。
来年もできますように。
来年もここでできますように。
来年もそのまた来年も田んぼができますように。
水をうまく田んぼにためられますように、今年もがんばります。です。



ふくだ家から畑を見下ろす

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