2011年5月16日

水が漏れないように


わじゅさんとこばやしさんとにしかわの三人で毎日田んぼ仕事をしています。トラクターオペレーティングはわじゅさんで、こばやしさんと西川は草刈と畦の補修を担当しています。補修というとなんだか専門的な感じがするのですが、ぶっちゃけ、畦をふんで地盤をしめこみ、モグラのあけた見事すぎる、穴を親のかたきのように、あるいは地団太をふむようにしてふさぐだけであります。畦が低くて、水がオーバーフローするようなところはきちんと田んぼの粘土で畦を作り直します。それでも田んぼは青銅でも鉄でもコンクリートでもプラスティックでもセラミックスでもないので自然にある程度は漏れます。漏れないと田んぼになみなみとたたえた水は腐ってしまいます。稲が育つフィールドとして歴史が積み重なっている田んぼですから、根本的に自然ではないがかとといって完全なる人工でもない、いわば現世稲にとってちょうどよい環境としてあるのだと思います。理由はともかく、先人たちがやっていたことをそのままただやっているだけだとも言えます。トラクターや田植え機等等の機械は目を見張るほど進歩を重ねていますが、それらは人間の算術数的な仕事を幾何級数的な仕事量に置き換えただけで、大きなユンボを開発した人もえらいが、スコップを考えた人の方がはるかにエライのと同様に千年単位で現生人類が食べるお米のできる環境をもたらした先人たちの気持ちの方がはるかに今を生きている私にはありがたいような気がするのです。
用水を流れる水には一切機械的動力は使われておりませんし、田んぼの水を温めるのも電気的負荷は一切かけられてはおりません。こうした装置は田んぼにかぎらず、農業にかぎらず、多くの場所に存在するのではないだろうかと思います。あたりまえのように田んぼと呼べる場所の存在が少々の疲労を吹き飛ばしてくれるような気がします。
当然のこととして考えるのは千年単位の子孫に残せるのかということです。牧歌的にそう思うのではなく、事実として積み重なっている田んぼというやさいしフィールドのことです。
さて、明らかに水漏れの激しい田んぼがあります。そうした時畦を宮沢賢治ではないけれど、とぼとぼと畦の上を歩きます。そして、モグラのあけた、まるで設計されたようにしてあけられた大きな穴を発見する時があります。そして即座に穴をふさぐと瞬間に田んぼの水位が安定するのがわかります。稲が植えられている田んぼでは、稲が即座に喜びます。決して牧歌的、物語的に言っているのではありません。同時に稲と私の境目は消え去り、(それこそ千年前に)稲も私も消え去り、喜びだけが田んぼ一面に充満します。そんな私を見ても外から見ているあなたは気がつかないでしょうが。
収穫の喜びの前に無数の喜びを体験したい。そんなスケベ根性丸出しで今日も田んぼにいたのでした。


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