2013年11月10日

私はネット中毒です。

 newyork timesの記事で安倍内閣の秘密保護法成立への拙速さを牽制していた。原発事故しかり、モンサントなどの巨大多国籍企業による遺伝子組み換え種の問題しかり、TPPによるアメリカ主導の新自由主義勢力のグローバル化という究極的な地球のローカル化といい、全ての問題に世界という定義付けを成す主体、すなわち最終責任者がいないことという共通点を感じている私にとって、英語を原典で読むという行為が新鮮だった。(もちろん、定義付けを行い、最終責任を負っていると思っている者はいる)。
 (インターネットのブラウジング技術の真新しさを感じた日でもあった。原典のわからない単語やイディオムを右クリック選択すると、即座に翻訳があらわれ機械仕掛けにもかかわらず、発音までしてくれるサイトがあるのであった。長文でもOK)
 しかし、英語というのは客観説明に適した言語だと思う。通時的な歴史が現在使われている文法に何の影響も及ぼしていないかのように見える。もちろん新聞社の構成と校閲を重ねた末のテキストであるからという理由もあるのだが。そして、これだけ地球上に蔓延した言語であることの理由にはキリスト教の存在も否定できないのではあろうが。
 屈折語と分類されるように単語の語順がすこぶる文法的なせいで、絵柄としてというか、イメージとして単語の並びを見ることができ、一つ一つの単語の意味を介することなく書き手たるI(わたし)の書きたいことが感じられるような気がしたのでした。日本語ではじめて知った漢語を英語の和訳から再認識できるような期待が感じられて、しかも、発音ボタンをクリックすると、生々しい女性の肉声(もちろん機械)のアナウンスが何度でもくりかえして聴けるという喜びもあるのである。(どうして即座に任意の英文を朗読できるのだろうか)(すけべ)偏差値75で、英文和訳の名手とよばれた高校生の時代を思い出しました。
 

PS 日雇いポツポツと行っております。

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