2013年5月30日

バスケットマン&中学校準備委員会第2回。

1 インターハイ予選at kaga。

 バスケットマンの次男坊のインターハイ予選を夫婦して見に行ったのだった。次男坊は少し自意識強めゆえか、今までに一度もプレイを見せてくれなかったのだった。長男もバスケットマンだったが、彼は恥ずかしいけれどまあいいか、で観戦を許してくれたものだったが、次男坊は絶対に許してくれない雰囲気があった。
 しかし、知らない間に父の想像する彼ではなくなっているのかもしれない。最後の試合ぐらい、見せてくれとお願いすると、試合日程をメールしてくれた。(試合前日ではあったが)せっかくだからと細君も誘ってkanazawaの少し先hakkusan市までドライブしました。
 目立たぬようにと思っていたのだが、興奮してしまい、一人で頑張れ、絶対勝て、と絶叫してしまった。次男坊に目がいってしまうのはしょうがないのですが、チーム全体を応援しようと思いました。目の前に若い子供たちが私の大好きなwajimaと染められたユニフォームを着て一丸となって相手よりも多くのゴールを決めようと集中している様があるのです。ここでのwajimaは高校の名前でもあるし、地方公共団体の名前でもあるし、古くからの倭の島でもある。それだけたではない、今現在、寝起きし飯を食べ遊び学んでいる地球上の一点、昨日も立っていたし、明日も立っているであろう空想上の場所でもあるのです。
 試合は惜しくも負けました。3点差。残念でした。試合後次男坊とことばを交わしたいと思ったのですが、いやがるだろうなと思い、体育館の玄関脇のロビーで血圧を計っていると、目の前の階段から次男坊とゲームメークをしていたchihara君、それにバイプレーヤーのyachi君の3人が降りてきました。思わず、写真を撮らしてくれと近寄りました。「あの応援やめて」と冷静に言われました。他の二人がいや、あの応援はオッケーですと言って次男坊を笑ってたしなめてくれました。次男坊も笑っていたので、まあいいかですまされそうだと安心をしました。(今現在、恥ずかしさがこみ上げてきていますが)3人の写真を撮ると、「お父さんと二人で」と促してくれ、それに乗じて次男坊と肩をくんで写真に収まりました。「いいゲームを見せてくれてありがとう」と握手をしました。最後に次男坊も手を出してくれました。父親になって初めて、私は次男坊の保護者としての父親であるのだと強く思いました。
mattou sougou undoukouen。絶叫していてあせってスナップしました。wajima高校生写っておりません。バスケットマン3人の写真は私の秘蔵写真となりました。

2 中学校開校準備委員会 第2回。at noto。

 無料になった能登里山海道をwajimaに向かいました。いつものことながら、人や自動車の数とスピードがどんどん遅くなっていくのがわかります。wajima市街地をゆっくりと車間距離をあけて並ぶ車列の中で、思いました。kaga地区の子供たちと同じ土俵では、文武ともにもう勝てないのではないかと。都会の人たちと同じ政治システムを容認していては、子供たちだけではなく、大人が、否、大人の方こそ、ふるさとを維持できなくなるのではないか。情報量だけは都会と同じになっているが故に、かえって不自然な場所を作ってしまうのではないか。深く、冷静に、緻密に探し出せば膨大な文化遺産があるのに違いなく、その多くが金銭的価値に移行しにくいというだけで、もはやどのようなセンサーや最先端の道具を使っても探し出せない場所にもぐってしまうのではないか。少しぐらい貧乏でもゆっくりと、優しく暮らせる場所を自らの手で作り出すことは可能であると思うのです。そのための背骨として膨大な文化遺産が再び息吹き始めるのです。今現在も生きているものとして、生活として、多くの山や川や能登半島を取り囲む海とともに。
 何よりもその先鞭となる人間こそが、wajima市に生まれ、これから思春期を迎え、大人に飛翔するであろう13才以下の子供たちなのです。そして彼らの輪郭を縁取る要因としての教育があり、教育を行う場所としての学びやがあるのです。校歌や制服や細部の通学経路は2番目の議題であるのです。何よりも真っ先に準備しなければならないものは、私たち大人の思いなのです。今現在加齢を重ねている大人たちのふるさとをどうしたいのかという理念でもあり、具体的な目標であると思うのです。思考だけで(机上のアイディア)発展を目指す都市に肩を並べて競えるのは、優しい思い、強い信念、ほんとうに危機的なふるさとを次世代に渡そうとする遠いまなざししかないのです。
 グローバリゼーションという究極のローカリズムを生み育てるのは、愚直な思いという超個人的な、今ここに私は生きているという認識以外にはないと思うのです。そこにしか世界は育たないのです。似て非なるグローバリズムは、この視点が無いと、一信教的なイデオロギーに一瞬にして堕するのです。
 ほんとうに高校生たちは可愛らしかった。そんな彼らもほんの少し前まではお母さんにまとわりつき、ほんの少し先で大人になっているのである。一瞬も止まらないで動いているのである。
畳に、座布団では、ちと話しがat homeになりすぎるぞ。

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