2013年4月30日

こんな行為はダメだったのだろうか。

JUSAI 123 : やすむぞ←クリック

東日本大震災から、わずか2ヶ月でした。2年以上経って見返してみると笑えない記事でした。まず、考えたのがセシウムなどの放射線が微量でも来ていたのに違いないことですが、そのことだけではありません。不気味なという感じは正直思ったのですが、原発問題、福島第一原発事故の問題など、賛成反対、脱原発、反原発、中間派、無関心(を装う)なという風に細かく分かれて、影に日向に議論、中傷合戦などがなされている現在、「なんだか気持ちが悪い」「得体の知れない気分になります」とは言いにくい雰囲気が醸成されていることに気づきます。
 今でも、そのように思っています。世間では放射線の話はおろか、東日本震災自体のことが、メインで話されることがなくなりました。かろうじて、経済的な側面から報道などはされていますが。私のこの行為と記事自体は傲慢そのものですが、自分の思ったことをそのまま、というスタンスを貫こう(んなおおげさな)ということが記事更新を続けるモティベーションの一つには違いないのですから、どうか、そのようなわがままをお許しください。私は他人の意見を聴きにくいタイプの人間(構造的にヒトの意識は他人の言うことを聴けないのだと思ってたりします)ですが、私のわがままは、どのような他人の意見をもまずは聴くということが、不可欠であるということは忘れないつもりであります。(ヒトの言うことが聴けないから自意識という空間が育ってしまったと、今でも思っております)
 放射線のことを人類はまだ、あまり知らないのではないかという疑い(確信)があります。ならば私は声を大にして言いたい。思いつく限りの最悪の事態を基準に考えるべきだと。人類は人類のことを、まだあまり知らないし、経験も膨大な歴史記録のわりには、それほど豊富ではないと、もっともっと謙遜せよと、私という人類の一つに言いたい。くどいようだが、自分自身に、どのような意見も、必ず1回は聴けと強く言いたい。聞いたか?jusai123!ほんとうに不気味なこと、気持ち悪いことに対する感覚器官を自愛せよ!?

nakada本家さんの田んぼ。歴代家系の薫陶か、美しい仕事をさりげなくされます。小さな耕運機で。

私は意識の上にある普遍でもあるが、自意識を一般意識と混同するというあやまちに気づいたところで、止まってしまっている。再び、意識は自意識に語りかけなければならない。「なあ聴いてくれるか?」というところから。(わけのわからないところに、久々に行ってしまいました)(^0_0^)

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