2013年1月15日

Noto半島の古地図。

平成と昭和の大合併以前の能登半島の地図を見ていると落ち着く。まだ村がほとんどで、要所にポツンと町がかろうじてある。町以上の属性は、どんどん抽象性が増していく。意識の上でしか存在できないような砂上の楼閣である。国や世界なんていうものにたどり着く。まつりごとではなくて、政治を必要とする。
 與呂見と重々しい名前が奥能登のほぼど真ん中に書いてある。往時はゆりかごから墓場まであらゆる世代がそろっていて、小学校の分校まであった。今はどうだろう。一番若い人で70才をこえていて、祭りのみこしも神社を出ない。そしてjusaiが言うようなyoromi村なんてのも。あるようでない。ないようである。妄想上のものだから、常に定義付けをしないと消えてしまう。そして区切られ、隔絶されながらも、足下には確かに地面がある。大地などというしゃれたものじゃない。チベット民族まぼろしの王国シャンバラのように解脱の後にあるような神秘でもない。
 誰に区切られずとも確かにある村は、もはや無く。また、これからたどり着く小さな点もなく。ただここに立っているしかないことに無常の寂しさと永遠の矢印を見つけてうれしいんだと思う。
げんさんの薪山。垂直、水平きちんと出ている。

昭和11年ごろの尋常小学校の教科書についていた。

追記。

 用事で町に行ったら、コミュニティバスが走っていた。胴体には永井豪のマンガがデカデカと描かれてあった。jusaiが小学校低学年のころ、ハレンチ学園が全盛で、同級生や先輩たちと永井豪って輪島出身なんやてな。と、ひそひそ話していた。なぜ今頃になって美術館やら輪島市のIDに使うのだろう。なぜ、当時、支援しなかっとたのだろうか。やっぱりハレンチだぞ、バスが。

 

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