2013年1月28日

勉強会。初日。

 農閑期というより、雪で何もできない僻地ということに甘えて、冬休みだと豪語してきたのですが、老齢による体力低下やピークをむかえつつある子育てでのコストアップなどなどの理由でなかなかのんびりできないなあと思いながら、やっぱり脳みそが熔けそうな時もあったりして、最近テレビでは、ものすごく立派なお父さんが出てきたりして、末娘の手前、もはやダメおやじでごめんねと言う気も失せて、それでも今、このようにしてあるしか手がないのだからと、気をとりなおしながら、生きております。
 さて今日は勉強会であります。先生は佐野さん。(2011年冬の勉強会→)もはやかってに思っているのは、お坊さんから何かを得ようなんて思うのがまちがいのはじまりなんで、お坊さんがいたら、その香りを素直にをかげばよいのだということであります。お坊さんの持っている経験やその他もろもろが、たとえものすごく、価値が高くて有用であっても、そのお坊さん全体を味わうには、かえって、有用であればあるほど、邪魔なものになっているのだということに、思いをはせることこそが、お坊さんに最も敬意をはらうことなんであると思うのです。仏教は本来、不立文字なのであり、どのような偶像もないのだし、当然のことながら集団という志向性はゼロなのであります。ブッダもダルマも当然のごとく、自らが自らの最大にして、最愛の解釈者なのであります。
なんとなく思うのは、最大の敵のもとでもっとも輝くのがbuddhismもしくは禅なのであります。敵は文字ではなく言語なのです。ご立派なお坊さんですねとご本人に言うことこそが、眼前に立つつるつる頭の人の全存在を否定することなのではないだろうか。
この経本は、西川家の仏壇の引き出しに入れてあったもので、七尾市常福寺よりと裏書されている。筆跡がばあちゃんかな。わからない。じいちゃんの父ちゃんが能登島から輪島市に来て雑貨屋を開いたのだが、お墓の竿の部分だけが能登島に残っていて、それを輪島に持って来た時にお世話になったのかな。顛末はわからないが、佐野さんの勉強会で役立つことこの上なしです。ずっと仏壇に入っていたせいで線香の香りが染みついているのも、ええ感じなんです。

 と、ここまでが勉強会前に入力したものでした。さて勉強会も終わり、再びテキストに向かっております。信心ということと、礼拝するということ、そして南無阿弥陀仏の名号と、仏の話でした。何か良くなるなどの目的を持った信心でも、浄土に運んでもらえるのだが、その浄土は花の咲かないプラスティックのような花々に囲まれていて、苦は何ひとつないのだが、ものすごく退屈なのだそうだ。ある時、如来がその浄土を護っている弥勒菩薩にそこにたどりついた男のことを尋ねたのだそうだ。「この男は、なんとかしてここを出ようとしております」というような状態なのだそうだ。では、今度は、私が何か、よくなるような志向性でもって信心するようなことは、かえって邪魔になるのですかと尋ねると、佐野さんが答えてくれる。「救いがないということに気付いた時に初めて、仏の方から私という状態にむかって一つの矢印がむかってくる。そのことぐるみのありようが救いなのです」救いのないことが救いなのである。これは論理でも物語でもなく、現実の様をそのまま表したことばであると、私は受け取りました。在るという時の在は現実であり、事実そのもののことなのだと。
 例のごとく、参加者が何かを輪番でしゃべらんといかんかったのですが、その中にyuikaちゃんという可愛らしい中学生がおったのですが、その話がもっとも的を得ていたなあ。
「ムズかしくて、ワケがわかりませんでした」やっぱり、チュウボウはすげえと思ったのでした。



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