2012年8月22日

社会福祉協議会。

私はいつの間にか、三井地区社会福祉協議会の理事になっていた。その総会があり、三井中学校の廃校等の問題も告知しといたほうがよいであろうと思い、参加した。公民館の関係の方、民生委員関係の方、学校関係の方が集まっていた。会計報告以外の主要な議題が敬老会の開催に関することでもあり、ああ統合問題は場違いかあと一人じくじくしていた。なんで、敬老会ごときで、などとたかをくくっておったのだが、三井地区の敬老者の名簿を見るにいたって、妙に、興味が増した。地区別に人数が書かれてあり、総勢155人がつらなっていた。施設や自宅におられる古老たちを想像すると、10この地区の広さと性質の違いなどに及び、広いもんだと思う。そして、学校の存在はたとえ、生徒、児童数が少ないとはいえ、あなどれない大きな地位を占めていることを確信する。
 とにかく、現在、自分の知りうる情報を告知したくなり、その旨を伝えると、皆こころよく、座に残ってくれた。やはり、非常に興味のある問題なのだ。皆さん目が真剣だ。学校がなくなるということは地域の」あり方を根本から変えるほどの重大な問題なのです。三井という文化が消滅してしまうほどの問題なのです。ちっぽけな市街地のベッドタウンになっちゃうんです。などと、言った。だが、私を含めて、本気で三井中学校の消滅を憂いてはいなかった。自分の問題とはなりえないのは、もしも学校がこのまま存続した場合の空想的責任を想像したからである。
 民生委員、区長、福祉推進委員など、ほぼボランティアで社会の安定をはかる人がいて、いろんな協議会があり、江戸時代の肝煎(きもいり)の名残のような制度にて、現代日本が動いている。こうした犠牲的制度は、ゴールが明確に設定されさえすれば、見事に機能する。だが、責任の所在が初手からあいまいになる。個人の胸のウチで浮かぶ素朴な疑問という形の延長線上に、空想的な形で(中間なしに)自動的に加わる失敗の図がある。その図は、間違いなく気の弱い、自意識にとっては受け入れることのできない図だ。私は三井地区の将来に責任は持てない。が、こんなんでいいんですかと、ぼそぼそとしゃべり続けるだろうと思う。

稲には今、水が必要だ。  

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