2012年7月21日

薪準備終わり。

一人で仕事をしていると、耳鳴りもうるさいけど、自分がうるさい。うるさいと感じるのも自分だけれども、どちらかといえば、うるさいと感じられる自分の方がはるかに多い。うるさいと感じる自分がいるときにだけ、うるさいと感じられる自分は存在できないのだから、もちつもたれつです。しかし、両方が、同時にあることはないですな。常に、私という場に存在できる自分は、どのようなタイプであれ、どれか一つですな。だから、現実に今あるのはどっちの自分だと、考えたら、もう検証不可能ですな。おいてけぼりをくらわせられながら、おいつこうとすることが、人生の全てだ。
最近のひらめき。思考と言葉と意識は絶対に同時発生なのではないか。で、常に今あるのは、その中のどれか一つなのではなくて、すべてである。たまたま、そのうちのどれか一つにこだわってしまった場合、そのこだわりから、一瞬でも抜けることは無理なんではないだろうか。自分でつくってしまった囲いは、出ることは、無理。だが、出る方法があるし、出た人もたくさんいたことだろう。
また、意識と自意識がまったく違うものだということを、表現することは無理だと思うのだが、これまた、すでにある。と思われるが、それは読めても、理解できても、伝わったことにはならないと思う。自意識を自分の意識だぐらいに思っているやつには、読書ということの本質を知らないものには、読めないと思うのだ。
自分という感覚は、そんなに古くないと思うが、一端知ってしまったものは、知らなかった時のことを、それが、たとえば、昨日だったとしても、全く思い出せないのだった。
アブやブヨは、両手が使えない時を見計らったようにして、やってくる。ブーンブーンと自分のまわりを旋回します。「ほんとにズルいやっちゃな。スズメバチかと思ったぞ」だが、叩き落とすと、中身がほんとうにスカスカだ。あわれなヤツやなあと思う。「やっぱり、ホンモノのスズメバチはレベルが違うな」。ハエもわざわざ、付いてくる。うるせえなあ。おろかな連中だ。そして、夕方、一服こいていると、目の前に女郎ぐもが、もさもさ、上下左右を行ったり来たりしているのが、目に入る。「器用やなあ。繊細な技やなあ」。いや、あれは本能的な動きなんであって、あいつらはエラくない。「いや、やっぱり、研鑽したんやって」。やっぱり、自分はアブやブヨと発している波長が一緒なんだなあと思いました。スズメバチやクモのことは全くわからない。
昨日の夜、やはり玄関外で一服こいていたら、左後方で、アフン、あへとかみたいな高波長の音がした。以前からよく、マムシを見る場所で、もしかしたら、子供のあれかっと、怖かった。「頼むから、許してください」とお願いする。なんだか、未知の生物から送信された言葉なのかもしれないと思うと、カエルや虫のなきごえも怖くなる。「お前、ビョウキなんやから」と自分が自分に言い聞かせても、ごまかせない雰囲気がある。もはやちょっとした物音にも意味をさぐろうとする。人間って、じゃないな、おれって、もしかしたら、なんにも知らんのかもしれない。と思う。玄関をあけて家に入ろうとすると、ガサゴソという物音の正体が動いていた。忘れよう。と思うとすぐ忘れられるのが、救いだ。自分と私と己は違うらしく、正確な説明も、特に仏教の教学の場では、ほぼ判明もしているらしいのだが、これだけは自信がある。この私という自意識では、そのようなことは絶対にわからないと。この強烈な自意識はこの私にしか触れないのだと。誰の、どんな意見も全く参考にならないのだと。クモの糸を見ていたら、芥川龍之介を思い出した。あいつ、36で死んだのか。若かったんやなあと思いました。でも、やっぱり、自分のあとをついてきたら、蹴飛ばすやろなあと思いました。
俺を一番疲れさせているのは、俺なんやなあと。


追記。

結局、8束もらった。どうも、束が小さくて、中の木切れも薄くなったようです。ゴミとしていたものを、ゴミではないことにしたのだろう。会社は厳しいのだ。

明日は田んぼの水を落とそうと思う。

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