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| sakata4。まだアザミきれいです。 |
草取りは終えたつもりであったのに、草取りをしてしまった。どうしてもオモダカが気になって殲滅したくなりました。yoromi地区の本通りにあり、恥ずかしかったのです。yoromiの古老たちやこの本通りをwajima とsuzuのバイパスとして使っている方々も朝のクソ忙しい時や夕方のハヨウチに帰りたい時でも気になってしまうのではないかと。えれー草の多い田んぼやなあと。又は田んぼの持ち主のSさんの自宅前に見ざるを得ない位置にあるのだし、なんか草多いなあと思われるのも、からだによくないとも思うし。米ぬか農法などと法を喧伝している身としても具合が悪いし。斜向かいにある諏訪神社のかみさまもお前なあと言ってそうだし。稲自身が苦しそうでもあるし。といろいろ恥ずかしい。今なら、まだ間に合うし、稲の様子もよくよく見れば、まあまあ元気で、株別れしているからヤリガイもあるではないか。と。
オモダカだけをつまむつもりだったんだ。が、田んぼに入ると、雑草のall star game でありました。意図する頭のいうことを手が聞かない。稲からのお願いもあるんちゃうか。(なぜ、oosaka弁)稲もさらに元気そうだ。誰の指令でもなく、自分の意志で田んぼに入ったのだが、田んぼというフィールドは少なくとも、千年以上は、田んぼに人がいる風景をふつうの風景としてきたのだから、たかだか、30年やそこらで田んぼに人がいる時間が激減したことなど、どうでもよい。
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| Sさん田んぼ。稲の列(条とおぼえてください) |
このようにして、瞬時に、田んぼにいるただふつうの人という安心感がもたらされるのである。やり終える時間などどうでもいいと思うと、手は動いてはいるが、さまざまなことを考えたり実行したりできるものだ。まずやったのが、い並ぶ稲の列がもこもこと風に揺れながら葉の表面積を事実以上に増幅して錯覚させる風景をうっとりと見ること。ほんとうはアゼ際を歩いている時にもやりたいことがよくあるのだが、自意識過剰で誰かが俺を見ているという意識が片時も抜けないのでできなかったのだ。でも今日は20年田んぼをやってきて、初めて堂々と稲の列を見たんだ。こんな簡単なことができなかったのかあと田んぼで一人笑っている男を想像してください。完全な変質者だ。これからは喜びも悲しみもすべて正直に出したい、出してもいいですかと、再び誰かに願う。その誰かとは確実に、最初の恥ずかしさを感じる対象と全くの同一であろうことは容易に想像できる。
しかし、その対象が自分自身の場合、具体的なものや形としては想像不可能である。ただ何かを感じる場があるということと自意識が重なり、言語中枢もその時だけは、そのことを思うことを許してくれる。そして、その時、その場は、絶対に私のものではない。
ふと疲れて、体を起こして、頭をあげてぽつんと田んぼに立っていると、俺はかみさまなんだな。いやおれの視線はかみのものでもあるのだなと思いました。諏訪神社からは、ただちに私の声をつかって、私にぶつぶつとつぶやかせます。「そんなんあるかい」(不思議と関西系だ)
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| ついにオモダカの花咲きました。 |
Sさんが畑をうろうろ(いい意味で)するのをやめて、仕舞いました。jusaiも田んぼから上がりました。今日、手でかいた地面(すなわち地球の表面)はほんのわずかです。しかし、こんだけかと思いました。限られたことしかできないと断念する時、jusaiの立っているのは、何の干渉物も隔てていない地球そのものの上であることを感ぜられました。(全てが信じられなくなって初めて信じることができるように)
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| 途中、雨宿り。この家には昔、呪術師のようなおばあさんがおられました。大きな声をムラじゅうに響かせておられました。ことばで、ムラをしずかなムラに変えていました。呪術師すなわちふつうのおばあさんでありました。諏訪神社の隣。 |
オモダカの根を香ぐと、海の匂いがします。海に面した町に生まれ育ちましたから、事実です。私の頭はその感覚を許します。(したがって、主観です)田んぼには可能なかぎりの水が入っています。チャプチャプと手は水をかきます。進む距離はわずかですが、前進しているのは確実です。田んぼは一瞬意味そのものです。
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| Sさん田んぼ。くさとり前 |
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| くさとり後 |
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| 四角田。いつのまに、こんなになった。(#^.^#)誤算。 |
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| yoromi high way。雑草魂。 |
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