2012年7月16日

お母様あ〜。

アカメガシワ。花が咲いている。

ネムの花。


自宅前のアカメガシワは、ロシナンテという老馬が死んでから、急激に大きくなった。草という草をはんでいた彼が結果的に残したものだから、彼が残したという冗談を私は信じている。冗談を裏打ちするように、たまたま本棚にあったフレイザーの名著「金枝篇」(岩波文庫)には、カシワが金枝を守る聖樹とある。一説によれば、フレイザーは大学の研究室をほとんど出ずに、呪術的世界を詳述したらしい。事の真偽は別にして、人間の想像力はどこにでも馳せる。めんどくさくて、本を読まずに勝手に、今自分が半ば冗談と思っている私の伝説をフレイザーの想像に重ねるという遊びを本は提供してくれる。一切の思考そのものが、呪術的世界への扉を閉ざしてしまうという直感を、逃げの一手としながら。拾い読みする文章への共感が、限りなく、真実に近い形故に、最も有害なテキストであると自戒もしつつ。
ネムの花が咲いた。梅雨の終わりを示すと、みなが言う。長いこと言い続けられてきたことは、自分が狭いところを右往左往していることに突き刺さるようにして長い時間を感じさせてくれる。蜩がその短い生命の音楽を奏でる時、私は私が有限なのだと私に言い聞かせる。イエーツの「丘が丘に重なるところ」を見つける一瞬の夕暮れなのである。
ふと思う、かつては、自分の死ぬ時を決めて、それから逆算して生きた者がいたのだと。そのような行為がたくさん重ねられて、人類は人間としての時間を蓄積してきたのだと。無限とはそのような有限の自意識が作り上げた今、ここを示す確かな名前のうちの一つであるのだと。
四角田。
今日、最後の田んぼのクサカリをしていて、いきなり目の前からカモが飛び立った。鈍感なやつやなあと思いながら、歩を進めると、そこには自身から抜き取った羽毛に覆われた中に7個のタマゴがあった。お母さんだったのか。いつもならば、遠くで私の足音を聞いただけで、不器用に田んぼから離陸するのに、わずか、1m先に獰猛なエンジン音が響いているのにもかかわらず、タマゴを温めていた。私はそこだけ草を刈らずに、刈り草をかぶせて、クサカリを終わらせる。カラスとトンビがいる。獲物を狙う鳥獣と、見て見ぬふりをする人と、いったいどちらが、冷たいのか。どこかで、えらい人がうまくやってくれていることを期待しながら、わずか80年の生存を自明な権利として消去法で考える私と一瞬先はどうなるのかわからないところで生きている鳥獣たちとが、同じアゼまわりで立っている。


追記。

勉強会田んぼ。

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