2012年6月15日

まだ、水が出ないんだ。

 水道の蛇口をひねれば、水が出るということのありがたさを、水が出ているうちは忘れてしまう。毎回、断水するたびに(蛇口をひねっても水が出ない)一瞬にして、なんとありがたかったことかと思う。しかし、水が再び出たとたんに、ありがたいなあという気持ちも再び消えてしまう。そのことを何度くりかえしてきたのだろう。
 断水もたいがいは原因箇所がだいたいわかるので、すぐに復旧するから、ありがたさの気持ちに気づく暇もなくふつうの状態に戻る。
 水っちゅうのはなんとありがたいものかと思わせてくれるのはいいのだが、洗濯ものや茶碗などの洗い物が貯まる一方で、家が荒む。気持ちも荒む。今回の断水は水が出るしか手がないようなシチュエーションにもかかわらず、水が出ないので、なおさら、荒んだ想像力を土台にして具合の悪い箇所を考えるしか手がない。だが、jusaiはそこらへんの配管がどうなっているのかわからない。yoromiに入りたての頃に村田住職から聞いたとは思うのだが、そんなもん、住職さへ知っていれば、住職がやってくれるんだから、真剣には聞いていないし、覚えられない。自家水道は前にも言ったが、源水から家の蛇口までの道のり(出たあ、ミチノリ)を知っている人がある日突然いなくなったら、残された者は途方にくれざるをえないのである。そういうことを強く思う。聞いておかなければならないことを聞き、なおかつ、記録しておかねばならない。自分で苦労してつけた道のりではないばかりに、いざ一人その道を歩む時、とんでもないほどの絶望感にとらわれることになるのだった。
 田んぼの用水もそうだな。あきらかに道のりの全体を知っている者が見ていてくれることの上に乗っかって、タマワリする田んぼができていることを痛感します。徐々にではなく、急激にムラ全体を見る古老が消えてしまう不安感にさいなまれることの多い、jusaiなのです。

なんとか、燻炭鎮火できました。出来上がりに素手をいれると、まだ熱を持っているのですが、大丈夫だろうと思います。火もあなどれず、残りの四大元素たる、地と風もそうした基礎的要素のもとにあるのだから、揺れるようにしてある不安感も又、自然のことなのであると思いたい。と思います。

yoromi high way。 ただの谷内ではなく、Kばあちゃんの畑です。

輪島特産 トビウオ(wajimaの人はアゴとよぶ) 刺身でも天ぷらでも、日干ししてダシにしてもグンバツ(ふるっ)です。

0 件のコメント:

コメントを投稿