2012年6月4日

コロガシ。(2)

荒起こしが終わっても、シロカキが終わっても、田植えが終わっても、米ぬかを撒き終えても、一瞬喜ぶのだ。終わったあ。が、早苗の成長に休みは無く、体と心が十分に休まらないうちに、水まわりの段取りを考えるひまもなく、次次次と続く。これが稲刈りまで続く。そして、毎年、来年はこうしようああしようと考えて終わった感じも一瞬にして、消える。新米の魅力がいつの間にか、消えてしまうようにして。それぞれの田んぼは一つしかないのに、一つデーンと横たわっているとは思えないのであった。
コロガシていて、足が小石を踏むことがある。あゆみを止めて、拾うかと一瞬思う。が、決してめんどうくさいわけではないが、次の一歩を踏み出してしまうと、戻っても再びあの小石を見つけることは困難だ。深水が透き透っていれば足跡をたどれば再び小石を踏むことはできるでしょう。が、メコンの濁流のように、深水は濁っている。泡でぶくぶくしている。なによりも、そんなのはやっぱりめんどうくさい。田んぼってあぜで囲まれた有限なスペースなのに、俺の感官ではほぼ無限大に広いなあと思う。野外というのは、田んぼに限らず、目の前で何気なく落としたネジが永遠に見つからなくなることがある。外ってのは怖いもんだ。
水まわりが始まり、毎朝、田んぼを見にいきます。水まわりだから水がどれくらい溜まっているかを見るわけだが、本来は稲の姿や草や田んぼのまわりを見るということだろう。コロガシていても、稲とまわりに視線を集中させようとする。それは稲のため、お米のため、お金のため、ムラのため、地球のため。結句、自意識ばかりを見ることになる。田んぼの水位はその単なる象徴というか、氷山の一角。ふと現れる宿敵たち、コナギやクログァイの小さな芽を見つけて始めて、稲の存在に気づいている不思議。我が大脳は関係性の網目をくぐったものしか理解ができないことに気づく。なんと膨大な量のものを見ていながら、見えていないことか。もったいないではすまないような気がする。


田植え花の色もくすみました。
そんな時、私は稲ですと言ってもいいんじゃないか。と思う。毎年思う。ただ稲を観察したいhttp://jusai123.blogspot.jp/2011/11/blog-post_9581.htmlなあと。しかして、そのような純粋な行為は必然的に田んぼに敷衍され、その流れはもはや止まらず、水を考えるということは源流のあるであろう山を考えてしまうことであり、雨を考えることであり、気象を考えるということは地球を考えることであり、地球という球体を知ってしまっている以上、どうしても宇宙にまで思いを馳せてしまうことである。ただ目の前にある稲を見たい。限りなく、自分自身を見るということに似ているように思える。そこに人間なんぞと考えようものなら。泥泥の深さが重くのしかかる。


コロガシは今回はここまで。残りの田んぼは田植え以後、日数が経っていないので、まだ活着(大地に根付く)しておらず、3日ほど経過を見ます。本当の意味で、一区切りです。

追記。


米ぬか散布量。


sakata1          2
sakata2          1.5
sakata3          2.5
sakata4          2.5
ばばなき田     4
銀座田1         1
銀座田2         1.5
神社前田1      1.3
神社前田2      2.5
神社前田3      3
Sさん田(自)   3
Tshoten裏1    1.5
Tshoten裏2    2
Yshoten裏3    2
ばばなき田2 4.5
tajiri田          1
ばばなき田向 4       昨年早苗が全く活着せずhttp://youtu.be/7zFElTEdWzQ、草が優先化してし             まったので、未散布でした。
Sさん田(林) 3
四角田         1       1/3、活着不十分にて、コロガシをここで終えました。


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