2012年4月16日

除染?

朝、テレビを見ていたら、放射性セシウムなどを取り除く方法論が議論されていた。あたかもこれまでの公害物質のように限りなくゼロにすることができるかのような話だった。確かに物質には違いないのだろうが、かの物質がこれほどまでに恐怖されているのは物質そのもののせいではない。その物質のあり方が問題なのだろうと思う。しかもそのあり方は遺伝情報の格納庫にしてそれぞれの生物の設計図たる遺伝子を破壊する。そのことが恐怖の真因である。我々の自意識からすれば、目にも見えない、匂いもしない、重さも感じない、すなわち五感では感知できない物質のあり方である。ということは、放射線事故というのはわれわれが世界をどう認識するのかということと同列の意味そのものの問題なのではないか。日常の風景に放出された放射線の存在はわれわれの世界が人が作った有限の世界であるということを露呈せざるを得ない自然現象に過ぎないゆえに、人が真に恐怖しているのはガンになるだろうということではなくて自分という存在を絶対的に守ってくれる容器がこの世界ではないのだということの発見によるのではないだろうか。

今まだ残る積雪の中のバラス。
意味としての人という存在は放射線という自然現象をコントロールどころか、問題として感知することもできないのである。科学的知見の外に放射性セシウムは厳然と存在しているのである。われらのどこを探しても、それを感知する器官が無いことに愕然としているのである。敵はわれらの感覚器官をつかさどる部分にまでくいいっているのに、それらとうまく付き合うとか、コントロールするとか、負けないという物語など構成のしようもないのである。いったん出来上がった意味は人が消えない限り、消すことができないのである。情報のようにいとも簡単に消えてはくれないのである。
ただただ、こわいのである。もはや、自然現象として、ただただ、セシウムはあるのだから。



畑に落ちては困るので、バラスを取り除きました。

梅がほころびました。

しいたけの植菌。
しいたけ山はezaki家のふもとにあり。

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