2012年3月3日

過剰な自意識と出会う。

三月一日、久しぶりに一日坐ろうと思って本堂に行きました。誰も坐っておらず一人でちょこっと坐っておりました。誰も見ていないから足が痛くなったら組み替えては、休んではとにかく夕方まで本堂におりました。どうしたら、ずっと坐っていられるか足の組み方やら胴体の位置、手のすえ方からいろいろと試してみるのですが、どれもダメでした。でも一番つらいのは、いろんなことを考えるのですが、こうした考え自体を維持するのが最も困難なのではないかと、一人勝手に思いました。何のためにとかどうしたらとかいろいろ考えているうちは時間も進みますが、それすらも誰かの他人の考えのような錯覚がおき、いても立ってもいられなくなりそうになります。そうした時、足の痛みは小さな恐怖を取り除いてくれました。
 今日、飼い猫が重体になりました。もう水も飲めず、どこかの猫に噛まれた傷が化膿して目に垢がたまり、口からは血反吐のようなゲロのような液体を垂れ流していますが、うなることもなくただうつぶせになって小さく体をゆするばかりです。自分は痛んでおらず、ある程度の余裕をもって、どうしたらいいのだろうかとぼそぼそ言っていると、勉強会の時を思い出し、阿弥陀様が救ってくださるようただ、念仏を言いなさいと言われていたようにも思えたが、本当に親鸞が言いたかったのは何をやっても救われないのだということなのではないかと思うと腑に落ちたように思いました。だが、この私の自意識は決してその言葉を受け入れない。
 この自意識ごと、どうにかしなければならないのだと思いました。本当にこのことは簡単なことなのだと思いました。だからこそ本当に難しいのだと思いました。自分で自分の意識に栄養を与えながら今日もだらしなく自意識に翻弄されて終るのです。

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