2012年2月16日

木々は芽吹きはじめています。

人の写真を撮ることがめったにない。思うに優れた写真家というのは高度なテクニックもさることながらいい写真が撮れそうなシーンに出会う確率の高い人なのではないだろうかと思う。運に恵まれて偶然いい写真ができあがることもあるだろうが、いいシーンに自らのファインダーを持っていく勇気とセンスが必要とされるのではないだろうか。私も含めて素人というのはいいシーンというのがかなり漠然としたイメージに過ぎず、光の量を差配する能力もないから、できあがる画像は漠然とした私そのものが投影されている寂しいものなのだろう。ましてや人見知りの私はそもそも人のいるシーンから逃げ続けているのだからアルバムには人がいないのはあたりまえなのだ。
よろみ村にはオリジナルなアーティストがいるのだが、彼らのことをブログやホームページにアップしようにも彼らに取材することができない。彼らの作品のオリジナルを他人に報知するにはまず彼らと出会わなければならないと思うのだ。恥ずかしいというより、優れた人の存在感はいやがおうでも、私というものを私のことわりもなく露にしてしまうのではと思うのだ。こうした思考回路はたくさんの経典の解釈にもおよんでいて、単に経典を読んで私はこう思うというプレゼンテーションではいけないという思いがある。まあ一種の逃避であり、愚図でもあるのだが。
中央の雄鶏は先代に比べて朝の告げ方が引っ込み思案。
当番で、ニワトリ小屋に久しぶりに来た。ニワトリはほんとにえらいと思っている。どのような残飯もきれいにたいらげてくれるし、中途半端な小屋のせいで侵入してくるテンに食われても生き残ったものは文句も言わないし、自分の生んだ卵までとられてもなんにも言わない。そのような完全に受動的な生物(しかも人間による人間のための人工交配の歴史がすごい)であるからか、彼らを見ているとなぜだか、自分の意識が明瞭にわかったような気になる瞬間があって怖いと思ったりする。そこではニワトリもワタシも消えて、自意識だけが明瞭に存在している。もちろん言語化されたここでは、もはやそのようではなかったかもしれない。
昨日の当番の時に出口のフックをかけわすれていて、もしかしたらと思ってニワトリの数を数える。いつも思うのだが、みな不規則に動きまくっていてなかなか数えられない。やはり、数を数えるというのは自意識にとってかなり高度な操作なのだなと思う。加齢による記憶力低下というのも最近、よく思う。
このアングルでの撮影は初めて!hukuda家盗撮^^

このアングルも。murata家盗撮^^

 さて、エントツはなんとか仮復旧しました。murataさんとezakiさんと三人でやったのだが、あなた写真撮影なんてできません。あるのはエントツだけです。




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